Retrospect 2007 (2) - 内部記憶の価値、外部記憶の断片化
世界は
時間の時計ではなく
記憶の時計によってつくられる
― Steve Erickson
以前、『Everyware』の著者であるAdam Greenfieldが、あるインタビューで印象的な発言をしていました。
皮肉に聞こえるかもしれないが、僕自身はかなりのオフライン人間なんだ。携帯電話もめったに持ち歩かないくらいだ。
それに人生には、オンラインで公開する必要など微塵もない、最高に素晴らしい時間がたっぷりある。仲間とギネスを飲み交わしたり、心地よい汗をかきながらジョギングしたり、夫婦水入らずのひとときを過ごしたり…。 そういう時間を求めて、日々の生活のあらゆる瞬間を大切にしているんだ。
そういう体験が薄められて、グローバルな記憶技術システムの中に放り込まれるのなんて見たくはないこともある。それに自分の他にも、そう感じている人々はすごく多いように思えるよ。
そういえば、私自身、今年の春にこんな経験をしました。
ある日、娘を保育園に迎えに行った帰りに、2人で近くのオフィスビルにある広場に寄った時のことです。
こどもというのは、走り回れる場所があれば必ずといっていいほどただ走ります。その日も、広場に着くなり、彼女は歓声を上げながらあたりを走り始めました。
私はベンチに座ってそれをただ眺めていたのですが、彼女があまりに楽しそうなので、ふと携帯のカメラで写真を撮ろうかという考えが頭をよぎりました。
が、実際には、鞄から携帯を取り出そうとした私の手はそこで止まりました。
休みなく走る娘の笑い声と、小さな足音。
頬を心地よく撫でる春の夜風の感触。
手に持っていたコーヒーから立ちのぼる香りと、そのカップから手に伝わる温もり。
どこかから微かに流れてくるクラシックのBGM。
それらすべてがカチリと音を立てて一つにつながり、まるで村上春樹の小説にでも出てきそうな、“完璧な瞬間”となったように感じたのです。
それは、まったく何でもない日常の一場面だったのですが、自分にとってはほんとうにかけがえのない瞬間でした。どういうわけか、自分はこの瞬間をきっと一生忘れないだろう、そう思えたのです。
そしてその時、それを写真という「外部記憶」のメディアに保存するのは、まさにその体験の豊饒さを“薄める”“切り取る”だけの行為に思えました。
写真なんて撮らなくても、この体験は自分の「内部記憶」の中に残る。
「外部記憶」化された体験は、何かの拍子に失われるかもしれない。でも、ほんとうに大切な体験は、「内部記憶」の中では決して色褪せることなく、消えることもない。
こんな当たり前の事実に、その日、あらためて気づかされたのです。
現在主流となっているウェブアプリケーションの大きな役割は、言うまでもなくユーザの体験を記録するということにあります。mixiで日記を書くこと、Flickrに写真をアップすること、気になるサイトをはてなブックマークに登録することなど、これらはすべて自分の体験を何らかの「外部記憶」として残しておくという行為です。
ここで重要なのは、それらの外部記憶化された体験は、Adamの言うように実際の体験を薄めたもの、あるいはその一部を切り取ったものだということです。しかも、体験の記録をもっともっとリアルタイムに行いたいというニーズに応じて、ついにはTwitterのようなサービスが登場し、各自が記録する外部記憶の“断片化”がますます進行している面があることは無視できません。
ただし、この断片化自体は決して悪いことではないはずです。たった一言のメッセージでも、コンテクスト次第では百の言葉に勝る場合だってあります。Twitterでの素っ気無い短文のやり取りを見て、「なんと殺伐としたコミュニケーションだ」と感じる人もいることでしょうが、使い方次第でそれは大きな可能性を秘めたツールにもなるのですから。
いずれにせよ、それらのツールを利用するのはあくまでも選択肢の一つに過ぎません。
そのツールは、みなさんの生活をより豊かにしてくれているでしょうか?
「みんながやっているから」「友達に誘われたから」という理由以外に、自分にとってそれを利用する必然性はあるでしょうか?
もしそうでなければ、Adamのように“オフライン人間”でいるほうが、かえって充実した生活を送れるかもしれないのです。


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