Retrospect 2007 (1) - 「キャラ」の自分/「プレイヤー」の自分
年の瀬に、昨年のエントリーと同様、この一年を振り返っての所感を書き留めておきたいと思います。昨年と同じく、3つのエントリーをポストします。
冒険とは、
人の外側で起きることじゃない。
人の内側で起きることだ。
― David Grayson
まずは、以前からブログに書こう書こうとしてなかなか書けなかった、あるゲームの話から。
このゲームは、比較的古いものですでに数多くのシリーズ作品が発売されていますが、その基本的システムの特徴によって少なからぬ中毒者を生み出してきたことで知られています。もちろん、私もその一人。一時期、“1,000回遊べるアドベンチャーゲーム”というようなキャッチフレーズでPRされてもいましたが、それが決して誇張ではなく、本当に何千回とプレーしても決して飽きることがない…個人的には、それくらいハマったゲーム。
それが、『風来のシレン』です。
シレンはジャンルとしてはRPGに分類されることが多いようですが、通常のRPGとはまるで異なる“原理原則”に基づくゲームです。
2chの過去ログでその特徴を端的にまとめてくれている書込みがありました。
普通のRPGはキャラクターや武器が成長して
時間をかければ誰でも必ずラスボスに勝てるようになる
しかしシレンはダンジョン内で死んだら全てを失う
経験値は0になり、所持金も0になり、アイテムも全てなくなる
それどころか生き残って生還してもまた経験値0のレベル1からはじまる
どうすればクリアーできるのか?
そのためにはキャラクターだけではなくプレイヤーが成長するしかない
アイテムの効率的な使い方やモンスターの特徴など
全てを理解した者だけがこのゲームをクリアーできる
それゆえマップが自動生成されると毎回違った攻略法になり
運が良ければより奥に進めるが、運が悪ければ即死になることもある
この緊張感こそシレンの醍醐味だ(ソース: 2ch過去ログ倉庫)
要するに通常のRPGとの最大の違いは、
一度死んだらすべてを失い、かつ過去と同じ環境が再現されることはないので、
キャラが得た経験や資産はリプレイする時に何の役にも立たない。
ということに尽きます。したがって…
「シレンは、キャラが成長するのではなく、プレイヤー自身が成長するゲームである」
かつてシレンの生みの親である中村光一氏がそのように発言されていたのを見て、私は目から100枚くらいウロコが落ちたのを覚えています。
“死んだらすべて終わり”というのは、まさにわれわれが現実世界に生きる上での原理と同じ。ゲームという遊びの世界においては、あまりにもシビアなルールです。
しかしそれだけに、シレンをプレイしながら味わう喜怒哀楽の感情や、経験から身に付ける知恵の大切さ、自分の慢心や油断や思い込みに対する反省や後悔の念などは、普通のRPGをプレイしたときとは比べ物にならないほど深く、リアルです。
そして、プレイの中で獲得したものはすべて、ROMカートリッジやメモリーカードの中ではなく、自分自身の頭と心の中に保存しておかねばならない。それはつまり、プレイヤーの責任範囲が非常に大きいということ。これも、非常に重要なポイントです。
さて、このシレンの話は、まるで何かのアナロジーに聞こえないでしょうか。
そう、インターネットの世界でも、ゲームの「キャラクター」的なネット上でのプレゼンスと、「プレイヤー」である自分そのものとの関係性が、非常に重要となりつつあるように思うのです。
2007年は、数々のソーシャルサービスが百花繚乱の賑わいを見せた一年でした。
それらのサービスのユーザとしてネット上に点在するたくさんの「自分」は、ひとりの人間としての現実の「自分」と、どのような関係にあるのでしょうか。
そして、現在のネットコミュニティは、キャラクターではなくプレイヤー自身を豊かにするためのシステム足りえているのでしょうか?
mixi、GREE、Facebook、MySpace、Twitter、Tumblr、セカンドライフ…etc. etc.を利用することが、自分という人間にどのような影響を及ぼしているのかをよく考えてみると、決して望ましいものだけではないこともあるはずです。それらのサービスは基本的に無料で利用できるため、金銭的コストはゼロかもしれませんが、それらを利用する時間的/精神的コストは実はかなり高くついていることも多いのです。
それを多くのユーザが自覚しないままでいると、すでに表面化しつつあるネットコミュニティでの“燃え尽き症候群”がますます多発するかもしれません。
そうならないためには、自分という「プレイヤー」にとって本当に必要なものは何なのかを、われわれ一人一人があらためて考えてみるべきではないでしょうか。


コメント