ミシェル・フーコーとTwitter

Ian Delaneyというロンドンのジャーナリストによる非常に興味深いブログ記事を読んだので、今後考えるためのヒントとしてのメモを少々。
現在のインターネット世界を席巻しているTwitterを始めとした各種のソーシャルメディアの性質を、フランス哲学者ミシェル・フーコーが提示したさまざまな概念に絡めて論じている。

Delaney氏曰く、これらの記事は決して揺らぎない持論というわけではなく、あくまで試論として読んでほしいとのことだが、随所にとても興味深い指摘が見られる。
ところどころ拾ってみよう。


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O’Reilly Mediaでソーシャルメディアのダークサイドについて語っているJoshua-Michéle Rossが指摘するように、ソーシャルメディア技術には強力な「パノプティコン」的要素が含まれている。

ネットワーク空間とパノプティコンとの類似性は、Peter Morvilleの『アンビエント・ファインダビリティ』の中でも指摘されていた。ただしPeterの場合、それをソーシャルシステムというよりはユビキタスコンピューティングの発達と関連させていたが。
いずれにせよ、私たちが、“誰の指図を受けるわけでもなく”互いに見張りあいするような事態になりつつあることは確かではないだろうか。

記事にある通り、元々はジェレミー・ベンサムが監獄の設計構想として提示した「パノプティコン」の概念を、刑務所のような建物に限らず社会全体に適用できると考えたのがフーコーである。

フーコーは、かつて18世紀に権力の有様が従来の抑圧的な方針を180度転換し、人々による表現を奨励する(かつ、その上で統治を行う)ようになったことを見出した。そこから知識が、情報が、表現する喜びが生まれたことになる ―― しかるべき方向に。このフーコーの考え方を踏まえるなら、知識や情報を作り出すことは、ある意味では権力への屈服だといえる。

たとえばブログの世界で行き交う対話の数々もそのあらわれだ。哲学用語で言うところの「ディスクール」、すなわち、常識的なエチケットや言語や規範に従っており、聴衆の身分や階層をそれとなくうかがえるような会話の総体としての言説である。この「ディスクール」に何かしら提供しない者は、その一部となることはできない。

ウィキペディアの定義によれば、「ディスクール」は“単なる言語表現ではなく、制度や権力と結びつき、現実を反映するとともに現実を創造する言語表現であり、制度的権力のネットワーク”であるとされる。
ブロゴスフィア=ディスクール、という捉え方から、あれこれ議論を広げられそう。

ここでもう一つ重要だと感じたのが、そのようなディスクールにおける
“声を上げざる者、存在せず”
という原理。
現実社会では、たとえ外部と一切接触を絶っていようと、その人間が社会の一部ではない、ということにはなり得ない。だが、ブロゴスフィアに代表されるソーシャルネットワーク空間においては、自分から何も発信しない人間はいないも同然ということ。
だからこそ、現実社会とネット社会、どちらでも同じ処世術が通用するとは限らないのだろう。

フーコーは、今やこういうものを用いて人々を統制できるはずだと述べている:

“tiny, everyday, physical mechanisms, by all those systems of micro-power that are essentially non-egalitarian and asymmetrical”
(ごくわずかな力で動く、そもそも平等主義に反した非対称なあらゆるシステムを用いた、ちっぽけで日常的な物理的メカニズム)

これはまさにTwitterそのものの話をしているかのようで、驚かされた。
フーコーのこの一節を取り上げて、ソーシャルシステムの各種機能との類似性を指摘したDelaney氏の炯眼に、座布団一枚。

ところで、ソーシャルメディアでは、違反行為はどこへ行ったのか?
・・・
自分が見るもの、自分の目に止まりがちなものはほぼすべて、文句なしの民主主義的メガネを通して、すでに(Googleに)ランク付けされ、(Twitterで)絞り込まれている。マイナーな見解は機械的に排除されてしまう ―― 誰かに推薦され、支持された情報だけがそのメガネに適うわけだ。

Delaney氏は、違反行為はほぼ姿を消しつつあると言う。それが見たければ、IRCやニュースグループ、掲示板、普通のウェブサイトなど、ソーシャルメディアに敗れ、もはや革新とは縁遠くなった仕組みの数々を訪ねてみるしかないだろう、と。

違反行為はともかく、自分が(そしてみんなが)特に好まない情報がますます自分の視野に入らなくなるという傾向は、この記事に限らずあちこちで指摘されている。このあたりは、社会全体のメディアリテラシーの底上げをいかに実現できるかという問題と関連して、自分の中で常に気になっているところ。

以上、結論もなくざっくりしすぎな拾い読みではありますが、自分への覚え書きとして。
「アーキテクチャの生態系」の読書会も、早いとこ実現しなければ…(汗)

2 comments to ミシェル・フーコーとTwitter

  1. noriyo より:

    阿部さん、はじめまして。コメントいただきまして、ありがとうございます。
    海外ではこのようにICTを学際的に論じている記事がよく目に留まり、ワクワクさせられます。日本国内でも、自分が属しているIAやエクスペリエンスデザイン関連のコミュニティで、もっともっと分野の垣根を越えた議論をしていけたら面白いと思っています。
    濱野氏の本の読書会をしたいというのも、その流れで出てきたアイデアなのです。
    実現の目処が立ちましたら、必ずご連絡しますね ;)

  2. Taiga ABE より:

    浅野さま
    はじめまして、Netyear/DENTSU marchifirstでIAをしていた阿部と申します。今は、公共放送のネット/アーカイブに関係したプロジェクトに携わっております。
    面白い記事の紹介有り難うございます。
    フーコーを読み直そうと思いました。。
    iPhoneなどの単純な文脈での身体性、mixiやtwitterが広まった理由としての社会的動物としての(?)身体性、フーコーの解剖−政治学/生ー政治学でのより、政治的社会的な身体などのグラデーションについて、考えさせられることが多い時代になってきた気がします。。
    「アーキテクチャの生態系」読書会は参加させて頂きたい(要約等もやります)ので、実現できそうになったら声をおかけ頂ければと存じます。
    では

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