今 敏『千年女優』への思い。

1997年に彼の初監督作品『パーフェクトブルー』を映画館で見終わった帰り道、私は半ば呆然自失気味だった。
自分は今、見てはいけないものを見て来てしまったんじゃないだろうか。
正直、そんな不穏な気持ちを抱えながらも、この今 敏という類い稀なアーティストが、これからどんな世界を見せてくれるのか、期待で胸が高鳴ったのを今でも覚えている。

その4年後、彼が監督第2作として世に送り出したのが、『千年女優』だ。

ストーリーは単純極まりない。
藤原千代子という駆け出しの女優である若い娘が、ひょんなことから思想犯として官憲から逃亡中のひとりの男と束の間出会うものの、その男は彼女を置いて再び何処かへ去ってしまう。千代子は、戦争の時代を経て大女優への道を歩みつつも、ほとんど何のあてもなく、生涯をかけてその男を探し続けるというだけの話だ。

しかし、この単純なストーリーが、まさに今 敏ならではの秘術的な映像と音響のテクニックによって、めくるめく象徴の森を、メタファーの海を駆け巡り、凄まじいほどの輝きを放つ。

千代子は駆ける。
ただひたすらに、どこにいるのかも分からない男に会いたいという一心で駆け続ける。
現実と虚構、過去・現在・未来、そして地球から宇宙までをも駆け抜けて行く。
理屈やら効率やらとはあまりにかけ離れた彼女の行動は、あまりにも愚かに見えるだろう。
特に、男性の目から見れば、まったく女は馬鹿な生き物だとしか言いようがないかもしれない。
極め付けは、ラストシーンで千代子が口にする最後の台詞だ(もちろんここには書かない)。
この台詞の破壊力たるや、“読み終わって思わず床に叩き付けたくなる小説”として自分の中で最高傑作の地位を占める三島由紀夫の『豊饒の海』を思い起こさせるほどであった。
ほんとうに、女ってやつは、なんという愚かな生き物なのだろう!

しかし、その女の愚かさこそ、まさにこの世界の“豊饒さ”の源ではないだろうか?

女の美しさ、女の純粋さ、女の優しさ、女の可愛らしさ、女の色香、女の逞しさ・・・
女のあらゆるプロパティの根っこには、必ずや愛すべき愚かさが — 程度の差こそあれ — 潜んでいるのだ。
その事実を、残酷なまでに鋭く抉り出しながら、同時に限りなく慈愛に満ちたまなざしをもって描き出した今監督の才能に、驚嘆せずにはいられない。

走り続ける千代子の愚直にも美しい横顔を見つめるたびに、私の目には涙があふれてしまう。
感動の涙なんかじゃない。
人間の心は、真実を突き付けられた時、大きな衝撃を受け、時に制御不能なほどの生体反応を示すことは、誰でも身に覚えがあるだろう。

私も千代子と同じだ。
千代子と同じ、愚かで、女なのだ。
手の届かないものとわかっていながら、それを追いかけずにはいられないのだ。
なんという真実!

でも。
この衝撃を麻薬のように味わいたくて、私はこれからも何度でもこの作品を観てしまうだろう。

そして、神は細部に宿る、という言葉の通り、素晴らしい映画には理屈では説明できない“永遠の一瞬”がある。
フェリーニの『8 1/2』、ゴダールの『ヌーヴェルバーグ』、タルコフスキーの『ノスタルジア』・・・自分がこれまで出会ったこれらの名画には、いつまでもそこに留まり、何もかも忘れて浸っていたいと感じる数々の瞬間があった。
わかる/わからない、おもしろい/つまらない、といった単純な二分法や、星3つだの5つだのという定量的手法による「評価」などというものが意味を為さない瞬間。
スクリーンと自分との間に、まるで臍の緒のように見えないパイプがつながって、血が通い出すかのように感じられる生々しい瞬間。

『千年女優』でも、私はそこかしこに、その“永遠の一瞬”を見ることになった。
この作品は、間違いなく、自分にとってかけがえのない映画のひとつだ。

今監督のあまりにも早すぎる死を悼み、心から御冥福をお祈りしたい。

コメントする

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

Gravatar
WordPress.com ロゴ

ブログにコメントするには WordPress.com にログインしてください。

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s に接続中