いつかIA関係の集まりの時に、「導線」と「動線」はどっちが正しいかという議論になったことがあり、その時は確か「導線」でしょという結論になった記憶があるが、本当は文脈に応じて使い分ければよいだけだ、とふと気づいた。
まず導線は「導く線」なので、その主体は設計者側である。したがって「導線設計」という用語ではこちらを使う。
かたや動線は「動く線」だから、その主体は利用者側である。したがって「ユーザーの動線」というフレーズではこちらを使う。
…という理解ですっきりするのではないかと思うが、関係者のみなさまいかがでしょうか。
そんなことを考えていてふと思い出したのが、近年UXの分野でしばしば目にする「empathy」というキーワードである。共感などと訳されることが多く、「sympathy」との違いがよくわからないので、気になってあれこれ調べてみたところ、もちろんそこには異なる意味合いがあることがわかった。
まずは、辞書の定義から。愛用のランダムハウス英和大辞典によると:
empathy
1) 他人の感情、思想、態度を自己へ知的、感情的に投入すること、または代体験すること
2) 自然物または芸術作品などに、自己の感情や心的態度を想像力によって帰属させることsympathy
1) (人間同士または人間と動物の)共感、共鳴、相通じる心
2) (趣味、意見、性格などの)一致、気心が合うこと、相性
3) (人・悲しみ・苦しみなどに対する)同情、思いやり
この定義だけでもかなりの違いがあるように、同じ“共感”といってもempathyの方が自覚的/理知的であり、sympathyはより無自覚的/情緒的なものだということになる。
(ちなみに「エンパシー」は心理学用語としても使われている)
また、共感する対象となっている体験を自分自身も体験したことがあることを前提にしているのがsympathy、そうとは限らないのがempathy、という違いもあるようだ。
たとえば、自分が過去に骨折したことがあるなら、誰かが骨折したと聞けば反射的にその痛さや辛さを思い出してsympathyを抱くだろう。いわゆる「同情」である。
一方、大切な友人が母親を亡くしたという場合、たとえ自分自身の母親はまだ元気で生きているとしても、相手の立場に立ってその悲しみを理解しようとするはずだ。そのような思いを、empathyと呼べるらしい。
もっとくだけて言えば、empathyという言葉には、2chのコピペで使われる
「異論は認める」
に近いニュアンスが感じられる。
「わたしとあなたの考え方は違う」ということが出発点になるのだが、
大切なのは「違いをなくすこと」ではなく
「違いを尊重し理解しようとすること」
というわけだ。
UXの分野でこのempathyというキーワードが使われるのはまさにそのためで、人間の経験や知識や態度があまりにも多様である以上、それらをすべて“我がこととして”理解するのは不可能だし、ある意味では傲慢なことにもなりかねない、という認識が生まれてきたからだろう。
また、このような“Embracement of Diversity”とでも呼ぶべき態度は、人間相手の話に限らず、たとえばアプリケーションのマルチデバイス対応や、Webサイトの国際化対応などにも着実に影響を及ぼしているように思う。
自分とは異質なものを理解しようとするのは、口で言うほど容易いことではないが、そうしようと努める人が増えていくならば、世の中は少しずつ変わっていくだろう。
Empathyとsympathyの違いを調べようと検索したところ、あなた様のブログを見つけました。調べようと思ったのは、Empathyの理解が私の対人関係を劇的に変えてしまったと気づいたからです。そもそもがジェラード・イーガンの「カウンセリング・テキスト」に、共感とは、相手の気持ちを理解するだけでなく、理解したことを相手に伝え、その伝えられたことを相手が理解するというプロセス全体を含む、きわめて能動的・創造的・メタ的行動だという内容のことが書いてあったからです。ありがとうございました。早坂文彦