Retrospect 2010 – 永遠平和のために。

18世紀ヨーロッパの幾多の戦争の時代を生きた哲学者カントが、71歳という老齢に至って著した『永遠平和のために』は、本というよりは小冊子という言葉がふさわしい、短いメモのような著作である。
今年読んだ本を振り返ってみて、一番深く心を動かされたのはやはりこの本だった。モレスキンにメモを取りながら読んだのもこの本だけ。なにしろ、ここにはとてもとても大切なことが書かれているのだ。自分の手帳にメモして、これから何歳になっても、いつでも見直せるようにしたい、そう感じたのである。

特に重要だと感じたこと。

その一。「共和的」であることと「民主的」であることは、イコールではない。
“自分は国家の第一の下僕にすぎない”というフリードリヒ二世の言葉に象徴されるように、自由の原則と法の平等を実現する社会システムに仕える代表者が統治を行うのが「共和的」であるということ。一方、「民主的」な制度の中では誰もが一人の王様でありたがるため、実は民主制というものは必然的に専制的・暴力的になっていく。

その二。民主制は、全員ではない「全員」が物事を決めていくという矛盾をはらんでいる。
投票制度のように多数決で物事が決まっていくなら、多数派の意思が実質的に「全員」の意思とされてしまうから。「自分は反対したのに!」と主張しても、「いや、“みんな”の賛成で決まったんですよ」と言われてしまう。自分だって“みんな”の中の一人のはずなのに。Everybody is Nobody、というわけだ。

かくしてカントは、「代表制」のみが共和的な統治を実現できるのだ、と説いている。これはもちろん、国家レベルでのマクロな視点に立った指摘ではあるけれども、実は個人の社会ネットワークの中においても重要なことではないだろうか。

私たちは、家庭や職場、地域社会、さまざまなオンライン/オフラインのコミュニティといった、たくさんのネットワークの中で生きている。そのうち、自分自身が代表者の立場を務めている場では、その支配権を握っていることをきちんと自覚しつつ、専制に陥ることなくいかに「共和的」な統治を行っていくかを常に考える責任がある。
一方、他の代表者のもとで活動している場においては、その代表制が形骸化した無意味なものにならないように、自分が選んだ代表者を信頼し、自分の意思をきちんと代表者に委ねる/伝える努力をすることが必要だろう。もちろん、代表者による統治が適正に行われているかをチェックすることも。

そして、カントは言う。
「平和は自由の墓地の上ではなく、
活気ある競争のなかの均衡によって確保される」と。

自由の墓地とは、争う者同士がやりたい放題攻撃しあった挙げ句、すべてが焼け野原となった状態のことだ。それを平和な世界とは呼べるはずがない。お互いを完膚なきまでに叩きのめすだけの争いは、もうたくさんだ。

明日から始まる新たな一年、政治やビジネスの世界だけでなく、世の中のさまざまな場で、健全な競争から芽吹いた豊かな成果が実りますように。
もちろん、自分自身でもそんな実を一つでも多く手にできるよう、日々地道に種をまき、水をやっていきたいと思う。

本年もこのブログをご覧いただいた皆様に、心より感謝申し上げます。
どうぞよいお年をお迎えください。

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