写真と記憶

1949年生まれの写真家、谷口 雅氏のテキストを引用しながら、「写真と記憶」の関係について思ったことをメモしておきたい。

写真は機材の変革によって、幾度かの脱皮を経験し、時代に即した価値観を人々の記憶に関わる欲望のなかに見出してきた。それはけっして新しい発見ではなく、幾度も時計の針を後戻りさせ、距離を飛び越えていくという写真の原点へと後戻りし、生き延びてきたしたたかなメディアであるとも思っている。

19世紀初頭から進歩を続けてきた写真は、何よりもまず〈記録〉のためのメディアである。そして、「真を写す」というその名の通り、写真がその撮影対象をできる限り正確に記録し続けるメディアであるためには、それをどれだけ一定不変な状態で保存できるかが重要となる。

わたしがそのことを初めて意識したきっかけは、まだ中学生だった頃にテレビで見た、コニカミノルタの「百年プリント」のCMだった。それまでは、わずか十数年前の両親の新婚旅行の写真などを見た時に、それがすっかりセピア色に褪せていることに何の疑問も抱かなかったのに、これからは自分の写真が100年経っても色鮮やかなままなのかもしれないと思うと、妙な気持ちになった。技術の進歩が、まるで「時間を止めること」を目的としているかのような、不自然なものに思えたのかもしれない。

写真が現実の写し絵を標榜しながら、つねに少しばかり改竄された現実の似姿へとすり替えていく巧妙な振る舞い。事実そのものではないということが生む解釈の揺れを武器として、表現であったり記録であったりとふらふらと変化してみせる。それは写真制作者の欲望と見る者の欲望との共謀が、現実を歪ませ、美化し、失われた過去を理想の思い出へと修正していくのである。

写真がデジタル化された現在、それは記録のメディアから〈記憶〉のメディアへと、あからさまに価値を転じてきた。もちろん、真正さを重んじる記録としての写真の価値が失われることはないが、人間が日々よりどころとしているのは、客観的な事実の記録だけではない。自分の意識に、あるいは無意識によって、美化され、歪曲され、捏造されることさえあるような〈記憶〉の数々によって、わたしたちは生かされている。

(大量増殖する日常的な被写体は、)いま在る日常の肯定、そうありたいと願う自己の姿をとどめるセルフポートレイト、Instagramのタイムラインは、そうあるべきと望む世界の写真で埋め尽くされていく。そしてそこには夢と美しさが溢れている、というその嘘っぽさに、飽きることがないのかと茶々を入れたくもなる。Instagramに残されていく希望の世界。まるでその写真のなかの世界こそが現実であったかのように、人と人とが「写真」を介してその偽りの世界の住人となっていく。Instagramに引き寄せられ、そしてその日常に違和感を覚え、しかしそこから反逆の視界が開かれていくわずかな可能性は息も絶え絶えなのだ。

いま撮影したばかりの鮮明な写真を、あえてレトロ調に、オールドファッション風に、すなわち“ノスタルジック”な記憶のように加工し、それを誰かと共有して自分を表現すること。Instagramが火付け役となって急激に支持を得たこの新たなコミュニケーションのかたちは、写真に単なるデコレーションを施すだけの従来のプリクラ文化とは、また別の意味を含んでいることは明らかだ。そこには〈時間〉という重要なファクターがひそんでいるのだから。

記録が時間に抗うものだとすれば、記憶は常に時間と共謀するものだと言ってもいいかもしれない。

一九七〇年という時代のなかで問われた日常性、生活世界への反逆の足場を日常性、生活世界に求めた写真家たち。かつてのわたしたちは日常という皮膜の怖さを写真に残そうとしてきたはずなのだが。

甘く美しく加工した記憶を、まるでラッピングペーパーのようにして「日常という皮膜の怖さ」を包み隠そうとすること。それが、デジタル技術によって露わにされた、現在のわたしたちのやるせない欲望なのだろう。

fumiCa.1900-10 Gelatin silver print. Photographer unknown. Courtesy of Okinawa Soba.

引用元情報
掲載誌: 富士ゼロックス株式会社 広報誌 GRAPHICATION(グラフィケーション)No.186 2013年5月号
コラムタイトル: 「いいね!」に流される写真の現実
執筆者: 谷口 雅(たにぐち みやび)氏
ブログでの引用をご快諾くださった富士ゼロックス株式会社 広報宣伝部様に感謝申し上げます。

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