『メディア論』からの引用を翻訳して、思ったこと

前回のポストで紹介した、『Intertwingled』の訳者まえがきの記事(記事提供: ÉKRITS / エクリ)で、ピーター・モービルが昨年の IA Summit で行なったスピーチの冒頭に、マーシャル・マクルーハンの『Understanding Media: the Extensions of Man』からの引用があったことに触れました。

1987年に、みすず書房から出版された訳書『メディア論―人間の拡張の諸相』では、その一節がこのように翻訳されています。

われわれの文化は統制の手段としてあらゆるものを分割し区分することに長らく慣らされている。だから、操作上および実用上の事実として「メディアはメッセージである」などと言われるのは、ときにちょっとしたショックになる。このことは、ただ、こう言っているにすぎない。いかなるメディア(すなわち、われわれ自身の拡張したもののこと)の場合でも、それが個人および社会に及ぼす結果というものは、われわれ自身の個々の拡張(つまり、新しい技術のこと)によってわれわれの世界に導入される新しい尺度に起因する、ということだ。

実は、この一節について、何度も読み返したものの意味がつかみきれない気がして、もどかしく感じていました。ひょっとしたら、原文にあたってみた方がいいかもしれない。そう思いついて調べたところ、このような文章でした。

In a culture like ours, long accustomed to splitting and dividing all things as a means of control, it is sometimes a bit of a shock to be reminded that, in operational and practical fact, the medium is the message. This is merely to say that the personal and social consequences of any medium—that is, of any extension of ourselves—result from the new scale that is introduced into our affairs by each extension of ourselves, or by any new technology.

原文に目を通してみると、やはり先ほどの翻訳で気になる点があるのがわかりました。たとえば、「in operational and practical fact」の「in」を「as」のように解釈していることや、最後の2つの「by」の並列関係を等価関係に置き換えていることなどです。細かいですが、「shock」という単語をそのままカタカナの「ショック」としているのも、ちょっとニュアンスが違うような…。

これらはすべて、決して誤訳と言い切れるものではないはずです。翻訳には、唯一絶対の正解はありません。でも、少なくとも自分にとっては、上記の訳文がすんなりと頭に入ってこなかったので、試しに自分で訳してみました。

私たちが属しているような文化では、ものごとをコントロールする手段として、何でも分割し区分するのが長らく慣習となっている。だから、何か作戦を立てたり実行に移す段になって、ことさら「メディアはメッセージである」などと言われると、ちょっとたじろぐこともある。それは、ただこう言っているのと変わらない。どんなメディアでも(メディアとはつまり、私たち自身の拡張のことだ)、それが個人的/社会的に及ぼす影響は、自分の個々の拡張や新たな技術によって各自の事情に持ち込まれる、新たな尺度によって決まるのだ、と。

いったん頭の中をリセットして、自分で訳した文章を読んでみると、要するに私自身がこれまで考えてきたような、アーキテクチャと人間の関係のことにつながる話をしているのがわかります。だからこそ、ピーターもそこに情報アーキテクチャとのつながりを見出して、この一節を引用したのでしょう。

まだパソコンもインターネットもない時代にマクルーハンが見抜いていた、「人間にとっての新たなメディアや技術の意味」は、『Intertwingled —錯綜する世界/情報がすべてを変える』の重要なテーマの一つとなっています。

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