ふたたび考える、生物としての人間と情報探索

今年の8月に私が「ÉKRITS / エクリ」に書いた記事「ベリーピッキングモデルで考える探索と検索」では、Web誕生以前に情報検索の未来を探っていた図書館情報学者、マーシャ・ベイツのベリーピッキングモデルについて調べながら、わたしたち人間がなぜ、どのようにして情報を探すのかを考えてみました。

その記事の最後でお伝えしていたように、もう一度ベイツの思考をたどりながら書いた、新たな記事を公開しました。

生きていくためには、どんな人間も「社会的」であることを求められます。とりわけ現代社会においては、子供のしつけや教育は「社会人として一人前になるため」に行なわれ、「反社会的行動」は刑罰の対象になることからも、人間にとって社会性がいかに重要とされているかがわかります。わたしたちが日々行なっている情報探索という行動も、情報のデジタル化や検索技術の進歩、インターネットの普及といった「社会的背景」を主要な手がかりとして、理解されてきました。

しかし、人間も動物の一種ですから、ただ「生物的」に感情表現をしたり、行動したりしていることもしょっちゅうです。そして今回の記事では、情報探索行動における「受動性」が、生物としてのわたしたち人間にとって、とても大切なものだということに注目しました。

こう書きながら私が思い出したのは、『生物から見た世界』でユクスキュルが語った、探索像と探索トーンの話です。
ユクスキュルは、椅子を探すという行動を例として、それらを説明しています。わたしたちは大抵、特定の決まった椅子を探しているわけではなく、「なにか座るためのもの」を探しているのだと、彼は述べました。つまり、探したい対象の具体的なイメージ(探索像)よりも、何かを探そうとする行動のモード(探索トーン)のほうが、人間や動物を「探しもの」へと駆り立てているのです。そのようなモードに入る手がかりとして重要な役割を果たしているのが、自らの棲む環境から「受動的」に、絶え間なく摂取している情報だといえるでしょう。

そう考えると、探索行動における「受動性」に目を向け、それを人間の生物的な性向のあらわれとして伝えようとしたベイツのメッセージが、一段と理解できるように感じます。
わたしたち人間は、どんな時代にどんな社会の中で暮らしていても、情報の森のなかにいる一体の生物なのです。

Plants and a creature.

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