詩と経験とコミュニケーション

詩とは何か、経験とは何か。ふと思えば、その二つを自分に問いかけるようになったのは、多感な十代の頃でした。当時のわたしが詩を好きになったきっかけは、室生犀星や萩原朔太郎といった明治生まれの詩人たちの美しい作品でした。そして、経験をめぐる森有正の思想に触れたことで、わたしは拙いながらも、自分なりに経験というものを考えるようになったのです。

時は流れ、数年前に読んだヴァルター・ベンヤミンの『経験と貧困』がきっかけとなって、詩と経験とが自分の中で結びついていくことになりました。

ベンヤミンは、1921年の『暴力批判論』に収められたこのテキストで、「戸口には経済危機が顔を覗かせており、その背後にはひとつの影が、次の戦争が、忍び寄ってきている」と記しています。第一次世界大戦での敗北は、ドイツに巨額の賠償金のみならず深い遺恨と復讐の念を負わせ、巷では極右勢力によるテロリズムが人びとを恐怖に陥れていました。そのような厳しい現実の中で記されたこのテキストを読んだわたしは、経験というものが世界によって容赦なく与えられるとき、人間は自ら望む経験を得ようとすることに疲れ、それを諦めてしまうこともあるのだと、思い知りました。

また彼は、かつて経験というものが、「指輪のように世代から世代へと受け継がれてゆくほど確かな言葉」として伝えられてきたことに触れると共に、「教養によって得られる精神的な富といったところで、経験によってこそ私たちがそれに結びつくのでないなら、そんなものになんの価値があるだろうか」と語っています。

わたしには、こうしたベンヤミンの思いが、詩人T・S・エリオットの言葉と響き合うように思えたのです。

一篇の詩の与える経験は、その時点での経験であると同時に生涯つづく経験でもある。それは他の人間によって与えられるもっと強烈な経験に似て……決して忘れられない瞬間であるが、まったく同じ形で繰り返されることはない。しかも、それは、もっと大きな経験全体の中に生き残るのでなければ、その意味を失ってしまう。

詩と経験とのつながりを通じて、自らの言語経験やコミュニケーションについて考えていくうちに、もうひとつの大切な転機がありました。同時代の哲学者であるカンタン・メイヤスーの思想に出会ったことが、世界を新たに捉えるきっかけを、わたしに与えてくれたのです。

今回「ÉKRITS / エクリ」に書いた記事は、そのように時を経て展開/転回してきた、わたしの個人的な思考の記録と言ってもよいかもしれません。

現時点でのメイヤスーの主著『有限性の後で』には、「偶然性の必然性についての試論」という副題が付されています。そして「偶然(contingency)」とは、さまざまな詩人たちが、その作品や詩論を通じて究めようとしてきた概念でした。彼らを結びつけて語ることが、自分にとっての必然であるように感じたわたしの思いが、この記事から伝わればと願っています。

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