〈ことば〉と〈モード〉をめぐって

IA Spectrum(浅野 紀予) x OVERKAST(大林 寛)

ダーウィン・ギブソン・フロイト

浅野:

私はずっとIA、情報アーキテクチャの領域にいて、しかもかなり狭いところにフォーカスしてきたので、IAがまるでUXデザインの影のような存在と化していくかのような世の流れに、少し抵抗のようなものを感じていたんですね。それに、そんな一介のIAである自分が、UXデザインという未踏の領域について何か一般論めいたことを語る意味があるのか、という疑問があって、実はUXという用語そのものを恐れてなるべく口にしないようにしてきました(笑)。

それはいまだにそうなのですが、振り返ってみると、大林さんのブログに出会ったおかげで、UXデザインというものにもう少し平常心で向き合えるようになった気がします。特に、3回に分けて投稿された記事、『ダーウィン・ギブソン・フロイト』は衝撃でした。あの記事で描かれているUXデザインについて、もっとお話ししてみたいと思いました。

大林:

それはどうもありがとうございます。UXデザインはどんどん扱いにくい言葉になってますよね。重要なのは言葉ではなくその意味ですが、自分にとってそれに相応する言葉が、今はたまたまUXデザインというだけです。認知科学の優勢が長いので、その刷り込みを半解除することが必要だと考えていて、そこにUXデザインの可能性を感じています。

ブログの記事は、半分は自分の考えをまとめるため、もう半分は自分にとっての理想の読者に向けて書いてます。あとは記事として耐久年数が長くなるように心がけてまして、それがコンテンツの強度だと考えてます。別に誰かに伝えることを諦めてるわけじゃなくて、その逆ですね。実際ニーズを意識して書いたものは、今読み返すと面白くないですし、最悪でも未来の自分が楽しめないといけないので(笑)。

とくに『ダーウィン・ギブソン・フロイト』はずっと言いたかったことだったんですが、内容からしてほとんどの人に付き合ってもらえない記事だと思っていたので、気に入っていただけて嬉しいです。

浅野:

私は何度も読み返しているのですが、なんかこう、繰り返し読むほどに、良いのですよ。あの文章そのものが、自分にとってまさに強烈なフェティッシュとなり得ているという。あらゆるコンテンツに言えることですが、何が書かれているかはもちろん大事で、さらにどう書かれているか、その重大さというかおそろしさを実感しますね。耐久年数がコンテンツの強度というのは、もうほんとにその通りだなあと思います。

大林:

「どう書かれているか」が問題であり、「文章そのものがフェティッシュである」というのは最高の解釈ですね。まさに想定していた理想の読者です(笑)。

実は浅野さんにそう言われて、昨日自分で読み返してみたんですが、言いたいことが多くて端折りすぎで、わかりにくい構成だと思ってしまいました。つまり昨日時点の「未来の自分」には響かなかったということですね(笑)。

テクスト・詩・経験

浅野:

その後、お薦めいただいて読んだドゥルーズの『ニーチェ』、これも素晴らしかったです。ドゥルーズというDJがニーチェというネタしばりでミックスしてるようなイメージ、と表現されてましたが、まさにその通りで。

この本で語られる「諸力の相克」とでも言いたくなるくだりなどは、UXデザイン論にものすごく絡みそうなところですよね。ニーチェの〈ことば〉を語るツァラトゥストラの〈ことば〉を語るドゥルーズの〈ことば〉を語る我々。〈ことば〉とは何なのか。〈ことば〉を通じて我々は何を体験しているのか。考えれば考えるほど目眩がしますね。

大林:

その本にある「ニーチェ選集」というのが、ドゥルーズによってニーチェの言葉が再構成されたものですが、本当にミックステープみたいですよね。内容を深く理解してて、ネタ選びと並べる順番がよくて、思いっきりがある。優秀なDJに必要な条件をすべて兼ね備えてます(笑)。

テクストを書いてるんじゃなく、自分の書いたテクストに書かされてるという言い方がありますが、浅野さんの言われてる〈ことば〉の体系や連鎖は、それに近い感覚ですね。

〈ことば〉を通じてしか理解や共感ができないのは、〈ことば〉による想像に頼っているからですけど、その上で「〈ことば〉にできない」とか「〈ことば〉にならない」って感覚があります。つまり語りえぬことは確実にあって、完璧な理解や共感は存在しないってことで、だからこそわれわれは〈ことば〉を語り続けるし、書き続ける。これが目眩ですね(笑)。

浅野:

そして、すべての〈ことば〉は詩になるのだ、という気もします。

大林:

ロラン・バルトが綴られたテクストのことをテクスチャー、つまり織られたものと言ってるのですが、そのほころびや裂け目から見え隠れするものに、その人らしさが宿ってるんだと思います。ちょっとした言い回しは、息づかいであり、ペン先の震えで、誰かを寄せつけまいとする強がりであり、弱さや傷だから、自己投影の対象になり得る。だから「すべての〈ことば〉は詩になるのだ」と言えますね。

浅野:

鷲田清一の『現象学の視線』に引用されていたのですが、リルケの『マルテの手記』にある「詩は一般に信じられているように感情ではなくて経験である」という一節にとても感銘したことがあって。詩は経験であるからこそ、大林さんのおっしゃる通り、自己投影の対象に他ならない。経験とは一種の「鏡」なんですね。

そしてこの一節を読んだ時、私たち人間の内面に生じる「諸力の相克」から現れる「体験」の姿が鮮やかに切り取られていると感じたのです。IAやUXデザインというものが、そこにどのような形で関われるのか。もちろんそれは、単なるUI設計の話では終わらないのですよね。

透明なインターフェースとフラットデザイン

大林:

経験とは「鏡」であるという言葉から、浅野さんの透明なインターフェースをめぐる記事を思い出しました。あの記事では、UIを透明な「窓」としてだけでなく、経験を映し出す「鏡」として、その性質に言及されてましたね。

記事の元になってる『メディアは透明になるべきか』もラディカルなインターフェース論で興味深かったです。ユーザビリティ以外の価値を、デジタルアートや美学に求めてるのが賢明ですし、それでいてアート批評を権力として利用してないことにも好感が持てます。

浅野:

もう一つ、あの本の面白いところは、ヤコブ・ニールセンをかなり容赦無く斬っているところですよね(笑)。自分の記事では、あえて深く触れなかったのですが、読みながら笑っちゃうほどバッサリでした。

大林:

そうなんですよ。しかも2003年にそんな話をしてたのが驚きで。ユーザビリティ信仰のことを、デザインの無駄の排除を追求する禁欲主義って定義してたのが、乱暴ですがわかりやすかったです(笑)。

UI設計は、テクノロジー中心の工学的な思想から、徐々に人間中心へと移り変わっていったと理解していたんですが、これはビジネスを前提としています。それに対してこの本は、純粋にUIと人の関係を考えた末に、経験のデザインということを言っています。だから耐久年数が長く、10年前のテキストなのに驚きを持って読めるんだと思いました。

その後、僕の方でも『窓と鏡のユーザーインターフェイス』という記事を投稿しましたが、「鏡」という概念は理解しづらいUXデザインの本質を言い当ててると思いました。今はそれが当たり前のように感じますが、読む前はUIの透明性の神話を疑っていなかったのだから、信じられません。

浅野:

その大林さんの記事を読ませていただいてふと思ったのですが、昨今喧しいフラットデザインの話題も、スキューモーフィックデザインとの対立軸を立ててグラフィカルな抽象化/具象化の綱引きとして考えるよりは、デザインの記号化の問題として探った方がよさそうな気がします。

大林:

フラットデザインという名前を与えられたことで、今のようなインフレが起きてるわけですからね。これもバルトの言葉なんですが、〈モード〉は言葉によって、つまり名付けられることによって〈モード〉になると言ってます。フラットデザインもそう呼ばれて〈モード〉になったことで、社会と結びついてある種の権力になりました。

「窓」と「鏡」の性質もそうですが、どんな事象にも「諸力の相克」みたいなのがあって、それを掘り下げていくと経験とか価値とか、あとは意味とかコミュニケーションあたりがオチになるんですが、今回のフラットデザインは深く考えず〈モード〉をオチとしたいです(笑)。

スペクトルとデザイン批評

浅野:

実は「IA Spectrum」という私のブログの名前には、そういう「諸力の相克」から生まれがちな単純な分断や対立を超えていきたいというひそかな願いを込めているんです。まあ、けっこう適当につけた名前なので、かなり後付けな理由ではあるのですが(笑)。スペクトルと付くものになぜか自分が魅かれるのは、どんなものでも濃淡というか陰翳があるのが好きだからなんですね。二つの極がある時に、それらを分断し対立させるより、できれば連続したスペクトルの中に置きたい。

大林:

「IA Spectrum」にはそんな由来があったんですね。これは貴重なコメントをいただきました(笑)。先日WIREDに掲載された、ジョン・マエダの記事にも「spectrum」というワードが登場しましたね。

デザインとは「厳然たる真実(hard truths)」ではなく、むしろ「柔軟な解答(soft solutions)」へのアプローチの多様性に関する事柄である。デザインは振れ幅(spectrum)があるものであり、「実物を模倣するかそうでないか」というような二者択一の決定ではない。

「iOS 7」論争とデザインの本質:ジョン・マエダ(引用元:WIRED.jp

浅野:

この記事で、「spectrum」を「振れ幅」と訳していますが、実に的確な訳語だと思います。

大林:

二元論に対する態度の取り方は、人柄がわかるので、とても興味があります。UXデザインという言葉に込めた個人的な想いも、関係性を観察する視点なので、近い立場かもしれません。

フラットデザインに話を戻すと、マエダ氏の言うように、〈モード〉は批評の対象になりにくいというか、その〈モード〉が好きか嫌いかという話にしかなりません。

浅野:

そうなのです。だから、フラットデザインの話題は主観的な話の延長でしかなくて、「批評」と呼べる論考はまだ少ない気がしています。だからこそ、今回のマエダ氏の記事はとても貴重ですし、昨年の秋に公開された『ジョン・マエダの考える「デザインを超えるもの」』という記事もすごく重要です。それを読んで気づいたのですが、iOS7の発表で私たちのようなUIデザイン関係者がますます混乱に陥っているのは、たぶんUIデザインの世界がまだ未成熟で、真っ当な批評的フレームワークが確立できていないのが大きな理由の一つではないかと。

大林:

まだ具体的にどんなものか想像できていないのですが、UIデザイン以降のデザイン批評というものがあるとしたら、アート批評とはすこし違う体系のような気がするんです。美的判断には、自分の「好ましさ」を他人に強要するものと、「一般に美しい」という論理的な判断によって他人と共有するものの二種類しかないと言われていて、アート批評は意識的にその二つを行き来してると思うんですが、デザイン批評の場合は他の価値判断も入ってくると思ってまして。そしてそれはきっと既存のユーザビリティ評価ではなく、経験を評価するような枠組みじゃないかと。

とにかくフラットデザインや佐藤可士和氏のセブンカフェのデザインに対して、みんなあれだけ物を言いたがっています。その回答はデザイン批評によってなされるべきでしょう。

モードレスデザインへの回帰

浅野:

もしUIの見た目という〈モード〉に囚われて、フラット vs. スキューモーフィックという二元論を語るとしたら、それは実に「モーダル」な話になってしまいますよね。私のブログで何度か触れてきた「モードレスデザイン」の概念が、今こそ一段と重要になっていると思うのです。たとえばある一つのボタンをフラットにするか影を付けるかで悩む前に、その箇所で使用するUI要素として「ボタン」というコンポーネントが最適なのか、あるいはそもそもそのボタン自体が本当に必要なのかという、より根本的な判断をすっ飛ばしてはいけない。まあ、ボタンの話に限らず、私がとやかく言うより『Modeless and Modal』を一気読みしていただく方がずっとわかりやすいですが(笑)。

大林:

僕も『Modeless and Modal』に深く感銘を受けた口です(笑)。

〈モード〉という言葉が多くなってきたので少し整理しますと、〈モード〉にはいろんな意味があります。今使われてるのは「流行」と「モードレス/モーダル」という意味ですね。以前〈モード〉という言葉についてかなり詳しく調べたんですが、「(時間に関係した)様式・形式」とすれば、すべての意味を包括できることがわかりました。だから今回の二種類の〈モード〉の意味も地続きなんです。

浅野さんが言われた根本的な判断というのは、囚われてる様式・形式を解除して行われるべきということですね。これは先ほど触れたデザイン批評に必要な姿勢じゃないかと思います。

浅野:

だから、デザインにおいて還元主義がイノベーションの妨げとなる、とマエダ氏が述べているのはもっともだという気がします。要するに、彼が訴えているのも、「まずモードレスであれ」ということではないでしょうか。今あるお手本を分解して、1個1個のパーツの良し悪しを解析したところで、それを寄せ集めればまた素晴らしいものができあがるという保証はないですよね。何より、その手法に従う限り「いまそこにないもの」を魔法のように召喚するのは難しい。でも、それなしには、マエダ氏の言う「表層的な議論を超えて、インターフェイス・デザインの次のフロンティアを大胆につくり出すこと」は不可能なはず。

大林:

モードレス/モーダルのデザインもそうですし、冒頭で触れたUXデザインと「認知科学的な刷り込み」の関係も、IAという領域における「諸力の相克」だと思います。モーダルデザインと「認知科学的な刷り込み」によるデザインの共通点は、利用者の意識と行動を分けて考えていることだと思うんです。つまりどちらもモーダルな思考なんじゃないかと。

だからそこに対する一撃が必要で、それがモードレスデザインであり、UXデザインの負うところなんじゃないかと思ってます。その認識があれば、イノベーションという〈モード〉な言葉を使わなくても済むかもしれません(笑)。

浅野:

もう一つ、フラットデザインの人気が高まるにつれて気づいたことがあります。たとえばボタンを例にすれば、その「ボタン」という名称そのものがスキューモーフィックなんですよね。フラットデザインでのボタンの場合、その実体はただの色付きの長方形だったり、果ては背景色も枠線もない単なる文字列だったりするので、それはもはや現実世界の「ボタン」とはまるで別物。なのに、それを「ボタン」としてユーザーに認識させようとするのは、デザインを通じたコミュニケーションの負荷や難易度を無駄に高めてしまうかもしれない。デザイナーの苦労は増えるし、ユーザーの学習コストも増えてしまうおそれがあります。モードレスな観点で考えれば、「ボタンと名指さなくてはいけないような何か」を思い切ってなくすことで、もっとよいUIが作れるかもしれない。

大林:

モーダルな観点だから、フラットデザインという〈モード〉に囚われてしまうということですね。モードレスな観点を持つことは、モードレスデザインの本質な気がします。あるオブジェクトを「ボタン」と名付けてしまった時点で、そこに制限ができてしまいますから。

浅野:

IA(情報アーキテクチャ)的にそこは重要なポイントですよ。その制限に気づかない人は、インフォメーションアーキテクトには向いていないかもしれません(笑)。GUIオブジェクトはかなり具象性の高い要素ですが、具体的になるということは限定的にもなるということです。ボタンでもリンクでも、それをポンと置くことが何を意味するのか、あるいは置かないという選択肢はないのか、IAの観点からよく考えなくてはいけない。

ただ、誤解のないように付け加えておきたいのですが、モードレスデザインは決して万人向けのデザインだとは思っていませんし、利用状況を問わない万能のデザインだとも思っていません。でも、それを知っているかどうかで、デザイナーの判断能力は大きく違ってくるでしょうし、その判断を客観視したり相対化するスキルを高めるにも非常に役立つはずです。アーティストではないデザイナーには、そういうスキルがどうしても必要ではないでしょうか。

大林:

デザイン批評が必要と言った理由は、それによってデザインを語る〈ことば〉が磨かれるからです。それは強い意志を示すための〈ことば〉になります。モードレスな観点で判断した結果、選ばれたものがモーダルなデザインであったとしても、それは問題にならないはずですから。

ユーザーに自ら語りかけるUI

浅野:

マエダ氏の記事に戻りますが、彼も「実物を模倣するかそうでないか」は重要ではない、と述べているように、見た目の話でフラットデザインとスキューモーフィックデザインを比べるだけでは意味がなく、さっき触れたコミュニケーションのためのデザイン言語の有効性まで比べないと評価は下せないはずなのです。でも、フラットデザインの世界ではデザインパターンというものがまだ発展途上にあるので、それを用いたパターンランゲージが欠けていたり、ばらつきが大きすぎたりして、ユーザーが試行錯誤を強いられているのが現状だと思います。

大林:

モードレスな判断が下せるように、デザインパターンを言語化・体系化するのは、IAの使命ですね。

浅野:

最近これまたバズワード化しかけている気がするナチュラルユーザーインターフェース(NUI)とかも、本当にその名前でいいのかと、つい疑ってしまいます(笑)。いったいどこがどう「自然」なのか、誰がどれくらいそれを「自然」だと認識できるのかなと。

ジェフ・ラスキンがかつて見抜いたように、私たちが何かを使ってみて「直感的」だと言う時、実は「慣用的」だということを意味しているのですよね。

大林:

「直感的」という言葉が客観性を帯びないのは、経験による結果論でしかないからでしょう。

ちなみにNUIと名付けられた理由は、GUIとの明確に区分することが必要だからで、その言葉自体に意味を問う必要はないと思いますが(笑)。しかし区分そのものは重要です。

浅野:

少なくともNUIについて言えば、その価値が「直接操作」や「メタファーからの解放」などにあることは、「ナチュラル」という漠然とした形容詞からは伝わりにくいのが残念というか。その概念が生まれた数十年前と現在とでは具体的な実装方法もかなり違うので、ますますコンセンサスを形成しにくい気がしますね。

大林:

年月を経て、言葉の意味が変わってきてるんですね。『メディアは透明になるべきか』にも、「古いメディア形態から新しいメディア形態が作られる」というテーゼがありました。われわれは古いメディアを使った経験を頼りにして、新しいメディアを使っていると。

GUIのスキューモーフィックな「ボタン」は、それが現実世界で使っていた「ボタン」と同じ振る舞いをするということを表現しています。しかしそれが「慣用的」になると、その説明は不要になり、スマートデバイスではフラットデザインが妥当になりました。

それからポインタを遠隔操作して、PCの画面内に潜り込ませてる感覚もあります。つまりGUIとは「窓」のようなもので奥行きがあるという認識でした。それがスマートデバイスで平らな画面を直接操作する経験を通じて、フラットデザインに行き着いたとも言えます。

そして今度はそれが〈モード〉としてPC画面の方にフィードバックされて来た。しかしPC画面でフラットデザインが問題にならないのは、スマートデバイスでの経験によって「慣用的」になっているからです。

浅野:

そうですね。たとえば、アフリカなどの新興国で特に多いですが、パソコンなど一度も見たことも触ったこともないモバイルユーザーにとっては、パソコンより歴史の浅いスマートフォンの方が「古いメディア」になるわけですから。

結局、UIというものも単なるオブジェクトではなく、ある種の「言語」なしには成立し得ないのだなと感じます。なので、フラットデザインなどのトレンドやデバイスの多様化を視野に入れた、新たなデザインパターンが今後少しずつ確立されて、「ユーザーに自ら語りかけるUI」が生まれやすくなることを願っています。もちろん、他人事じゃないので、自分がどうすれば少しでもそこに貢献できるかを考えなくてはいけないわけですが。

大林:

フラットデザインという「言葉」が一人歩きしてる状況を、デザインパターンの「言語」で解決するというのは、まさに〈ことば〉の連鎖ですね。今回は随分〈ことば〉を問題にして来ました。

フラットデザインやUXデザインといった「言葉」にこだわらなければならないのは、ほとんど権威主義だと言えるでしょう。それがいいとか悪いとかって話ではなく、モーダルなコミュニケーションということです。冒頭に言ったように、重要なのは意味であって、名付けられたものではありません。批評性を持った〈ことば〉によって語られることが必要です。

そして目指していくべき方向は間違いなく「ユーザーに自ら語りかけるUI」だと思います。これは今後もずっと続くと信じていて、実は今書いてる記事のテーマだったりします(笑)。

浅野:

それはまた楽しみです。次回の対談は、そこからさらにアンダーグラウンドに展開していくということで…。

この長い長いダイアローグに最後までお付き合いくださって、ありがとうございました。

(2013年7月 – 都内某所にて)