有害とみなされる人間中心デザイン

この記事は、Don Normanによるエッセイ「Human-centered design considered harmful」の全訳です。
原文: Human-centered design considered harmful (2005)

Column written for Interactions. © CACM, 2005. This is the author’s version of the work, the same as the published version except that I have corrected several typographical errors. It is posted here by permission of ACM for your personal use. It may be redistributed for non-commercial use only, provided this paragraph is included. The definitive version was published in Interactions, 12. 4, (July + August, 2005). Pp. 14-19.

人間中心デザイン(Human-Centered Design、以下HCD)は、もはやデザインの世界で問答無用の支配的テーマと化しつつあるが、何事も無批判に受けいれるのはよろしくない。このエッセイの目的は、HCDの原理原則をあらためて検討することにある。それらは役に立つこともあるが、誤解や間違いを生むこともあるし、ひょっとしたら害をなすことさえ考えられる。それより優れているのは、活動中心デザイン(Activity-Centered Design、以下ACD)の方だ。

汝のユーザを知れ

これはUIデザインやHCI(人間とコンピュータの相互作用)の金科玉条であり、HCDはユーザとなる人間をよく知ることで、まともにデザインされていないソフトウェア製品が世の中にあふれている状況を乗り越えようとしてきた。実際、それらのユーザビリティやわかりやすさは向上している。なのに、私たちはいまだにソフトウェアの複雑さから脱却していない。

特定のユーザーを理解するのがそんなに大事なら、一つの製品を世界中のほぼ誰もが使えるようデザインすることなどできるだろうか? ここにパラドックスが生じるわけだ。「汝のユーザーを知れ」という一般常識を見直そうと思い至ったのは、そのパラドックスに気づいたからである。

いま世の中にあるもののほとんどは、ユーザー調査やHCD手法の恩恵など受けることなくデザインされているが、それでもずいぶん役に立っている。中でも、大いに成功している代表的事例を二つ挙げよう。

自動車

世界中の人々が、ほぼ同じような操作性を持つ車で、運転を覚えることに概ね成功している。そのデザインは、きっちりしたユーザー調査に基づいて決まったわけじゃない。創成期の自動車では試行錯誤が激しく、馬車の座席やハンドルを模したり、船の舵や釣り竿を付けてみたり、手足で動かすいろいろな装置を試したりしながら、現在の操作体系へと進化してきたのだ。

日用品

ちょっと身の回りを見てみよう。台所用品、ガーデニング用品、工具、タイプライター、カメラ、スポーツ用品など、どれも文化による多少の違いはあるが、どちらかといえば似たりよったりだ。世界中の人々がそれらの使い方を覚えて、それなりにうまく使いこなしている。

活動中心デザイン

自動車や日用品が大いに役立つ基本的な理由は、人々が実行する活動を深く理解して作り上げられてきたからだ。これを活動中心デザインと呼ぼう。そういうものは大抵、いわゆる「デザイン」の成果というよりは、時の流れと共に進化してきた結果だ。作り手が世代交代しながら、顧客の声や自分自身の経験に根ざして、時間をかけて改良を重ねてきたのである。ゆっくりと進化を遂げてきた、民芸的デザイン。だが、「デザイナー」という肩書きを持つ人々がひしめく正真正銘のデザインチームが作った機材であっても、その操作体系を決めるには、実際に行われる活動についてのデザイナー自身の理解がよりどころとなったのだ。ユーザーはタスクを理解し、デザイナーの意図を把握するものとされていた。

活動はタスクと同じではない

「タスク」に対して「活動」という言葉を強調していることによく気をつけてほしい。そこには微妙な違いがある。私はこれらの用語を階層的に捉えて使い分けている。まず一番上に活動があり、活動はいくつかのタスクで構成されており、タスクがさらにいくつかのアクションから成っていて、アクションは操作の集まりでできているという具合だ。この階層構造は私が自ら名付けた「アクティビティ理論(Activity Theory)」に由来しているが、これは駆け出しの頃にロシアとスカンジナビアを対象として実施した調査が大きな原動力となった理論である。私が思うに、活動とは、コーディネートされ統合されたひとまとまりのタスクのことだ。たとえば、スケジュール帳や日記帳、カレンダー、メモ帳、テキストメッセンジャー、カメラなどを兼ね備えている携帯電話は、コミュニケーション活動を助けるのが得意だ。このただ一つの機材が、いくつものタスクを統合している:電話番号を探す、電話をかける、通話する、メモをとる、日記やカレンダーを確認する、写真をやり取りする、テキストメッセージやメールを送る、等々。活動は一つ、タスクは多数だ。

何が適応するのか? 技術、それとも人間?

歴史上の記録を探れば、ユーザーの適応と学習を要した機材の成功例はいくらでも見つかる。自分が行う活動にしろ、技術の使い方にしろ、ユーザーはちゃんと理解するようになるはずだと期待されていた。「ツールは人に適応する」なんて馬鹿げた考えなどありゃしない — 人がツールに適応するのだ。

最後のポイントに注目してほしい。これまで、HCDの原則から当然の帰結として導かれる基本的な答えは、技術が人に適応すべきであって、その逆ではないという結論だった。果たして本当にそうだろうか? これまでに成功を収めたいくつかの技術について、よく考えてみよう。

時計(および腕時計)

月/週/日/時間/分/秒といった単位は、どれも人間の心理学的な、あるいは生物学的な原理とは違う物理的な法則に従っているが、それらによって一年や一日を無造作に分割することが、すっかり私たちの生活を支配している。私たちは空腹感をおぼえた時ではなく、時計が三度の食事の時刻を告げるのに合わせて何か口にする。ちゃんと休息を取り終わった時ではなく、けたたましいアラームに合わせて目覚める。大学の講義は1時間単位で週3日、週当たり10〜15コマで行われるが、別にそのサイクルが教育上望ましいからではなく、単にスケジュールが組みやすくなるからだ。時間への極端な依存は、工場の増加とそこから現れた技術的社会が生んだ、思いがけない余波である。

筆記システム

印刷、手書き、タイピング。どれも人為的で不自然だ。やり方を覚えて上手になるまで、何週間、何ヶ月、あるいは何年もかかる。スタイラスペンによるローマ字入力の仕組みとして、Palm OSのGrafitiという成功例はあるが、これもまた自然な文字の書き方とは言えない。

楽器

楽器は複雑で使いこなすのが難しく、身体的に重度の問題を引き起こすこともある道具だ。記譜法はモード(旋法)に左右されるから、ト音記号とヘ音記号のどちらが付くかによって、同じ音符でも意味が違ってくる。ユーザビリティの専門家たちは昔からモードにまつわる問題に気づいてはいたが、もう一千年近くもの間、複数の譜表がつきまとっている。譜表を読んで演奏するのが上手くなるには、かなりの指導と練習を要する。演奏家が直面する健康上の問題は、関連書籍や専門医、それをテーマにしたウェブサイトや掲示板まであるくらい深刻だ。たとえば、バイオリンやピアノの奏者には反復ストレス傷害がよく見られる。楽器にしろ記譜法にしろ、HCDの観点からの査定をパスすることはないだろう。

人間中心 vs 活動中心: その違いは?

これは一体どういうことか? なぜ、そんな非HCDがそこまでうまくいくのだろう? きっと理由は二つある。その本質が行動中心的であること、そして製造者や設計者の意図がちゃんと伝わっていることだ。成功する道具というものは、根底にある活動が必要とする条件をたおやかに満たしており、誰もが理解できる形でそれを支援するのである。まず活動を理解せよ、さればその道具は理解可能となる。製造者や設計者は、ちゃんとした理由があってシステムの作りを決めていることが多い。そういう理由を説明できれば、そのシステムを学習するというタスクは楽になるし、もっともらしくもなる。もちろん、バイオリンを弾けるようになるには何年もかかるが、楽器そのものが弦とその音色との関係をうまい具合に伝えているからこそ、みな甘んじて練習に励むのだ。活動とデザインの両方が理解可能なのである ー たとえその楽器を支え、弦を押さえ、弓を引くのに、身体をねじ曲げざるを得なくても。

活動中心デザイン(ACD)も、実は人間中心デザイン(HCD)によく似ている。HCDのもっとも優れた特質の多くは引き継がれているのだ。しかし違いはいくつかあり、何よりもまず違うのはその姿勢である。姿勢とは何ぞや? そう、デザイナーの心構えのことだ。

活動とはつまり人間の活動のことだから、想定内のそのアクションと活動条件、そして生身の人間にとっての制約を反映する。人間への深い理解は、もちろんACDの一部に違いない。だが、ACDはそれだけに留まらない: さまざまな技術やツール、そして活動の理由までも深く理解することが欠かせないのである。

道具が活動を定める: 人は技術に適応する、それが現実

HCDは基本的な信条として、技術が人に適応することを前提にしている。ACDの場合、人間のふるまいのほとんどは技術の力とその限界に適応した結果とみなしても構わないと考える。睡眠時間にしろ、日々の身だしなみや食事、人付き合い、旅行、学習、通信、遊び、くつろぎ、そのいずれの方法にしろ、どれもこれもだ。こうした活動の方法だけでなく、それを誰といつ行うのかも、またモーレス(習俗)や慣習、しきたりなどと様々に呼ばれる行動規範までも。

人は技術にちゃんと適応する。技術は社会や家庭の構造を変える。私たちの生活を変える。ACDはそのことを理解するだけでなく、技術をまんまと使いこなすことにつながるはずだ。

活動を知れば、道具は理解できる。それがHCDコミュニティの唱えるマントラ(真言)だ。しかし実は、これが誤解を招くフレーズとなっている。多くの活動について、道具が活動を規定するからだ。おそらく実態はその正反対だろう: 道具を知れば、活動は理解できる。

芸術活動の例を考えてみよう。その活動においてあれこれ必要となる手段を身に付けるには、多くの時間がかかる。油絵を描きたければ、油絵具や絵筆、画材のことから、筆を洗う方法やタイミングまでも理解しなければならない。これはつまり、道具のせいで本末転倒が生じているのか? その通りだ。まったくよくあることで、それは今後も変わりそうにない。本当に優秀な芸術家は、自分が使う道具や技術をとことん理解し尽くしている。芸術的センスだけでは足りない。スポーツや料理、音楽など、道具を用いる主要な活動については、すべて同様なのだ。

HCDコミュニティにとっては、道具は見えない存在であり、活動に立ち入るはずがないものである。ACDでは、道具こそが活動の術となる。

なぜHCDが有害になったりするのか?

HCDのアプローチが害をなすことさえあるかもしれないとは、どういうわけか? なんだかんだ言っても、それは既存のデザインに伴う多くの問題について、如実に対処してきた結果として進化してきた。問題とはつまり、苛立ちや悲嘆、手間と時間の浪費や、安全を最重視すべきアプリケーションにおけるエラーや事故、果ては死亡などのこと。その上HCDは、明白なメリットを見せつけてきた。ユーザビリティの改善、利用中のエラーの削減、学習時間の短縮、その他もろもろ。それなのに、何が気がかりだというのか?

心配事をひとつ挙げるとすれば、個々の人間(あるいは集団)に焦点を合わせると、彼らにとって事態が向上する代わりに、他の誰かにとって事態が悪化するのではないかということだ。特定のターゲットとなる人々の特定の好き嫌いやスキル、ニーズに合わせて何かを仕立てるほど、それ以外の人々にとってふさわしいものではなくなっていく。

個々の人間は動く標的だ。今日の誰かさんに合わせてデザインしたものは、明日にはもう合わなくなる。いやまったく、製品として成功すればするほど、それがやがて的外れになる度合いも大きくなるのだ。なぜかというと、ユーザー各自がそれを使いこなすようになるにつれ、初心者の頃とは違うインターフェースが必要になるからだ。それに、広く普及している製品の場合、元々のデザインではうまく対応できない見込みが高いような、想定外の新規ユーザーが出てくることが珍しくない。

しかし、もっと重大な懸念がある:まず、人間に焦点を合わせると、活動そのものを支援する力が弱まること。そして、ユーザーのニーズに注目しすぎると、デザインがまとまりに欠け、複雑さが増してしまうおそれがあることだ。アプリケーションというものの動的な性質についてよく考えてみよう。どんなタスクにも一連の操作が必要だし、活動は複数の重なり合うタスクで構成されていることがある。この点こそ、焦点のズレがはっきりわかるところ、つまりユーザーに焦点を合わせることの弱点があらわになるところなのだ。

静的な画面 vs 動的な手順

キッチンでの作業は、個々に分かれた行動から成るのではなく、互いに関係している一連のプロセスで構成されていることがわかった。
クリスティン・フレデリック(Christine Frederick)『The Labor-Saving Kitchen』(1919年)より引用。

HCDの手法は、モニターに表示されるコントロール群や画面を一つずつ静的に理解することを主眼としているように見える。しかしその結果、活動中の一連の操作にうまく対応できていないことがよくある。先ほど引用したフレデリックの一文でわかるように、連続性への対応の重要性は、1900年代初期の時間動作研究(TMS)の頃からずっと知られていた。「キッチンでの」というフレーズを取り除いてしまえば、この一文はいまだ力を失わないデザインの処方箋となる。彼女は早くも1919年にこの言葉を記していたのだ:私たちがそれを忘れてしまったのは、過去100年の間に何が起こったせいなのか? とは言え、生産工学やヒューマンファクター(人的要因)、エルゴノミクスなどに関するコミュニティでは、連続性への対応の重要性はいまだに深い理解を得ている。どういうわけか、HCIのコミュニティではそこまで浸透していないようなのだ。

HCDのデザインプロセスを経てユーザビリティチェックをパスしたシステムの多くは、静的な個々の表示のレベルでは見事なものだが、その裏にあるタスクや活動が要する連続的な操作への対応に失敗している。HCDのメソッドは、ユーザー行動に見られるそのような面を見失いがちなのだ:行動中心的メソッドは、そこに焦点を当てる。

ユーザーの声に耳を傾け過ぎること

HCDの基本哲学のひとつは、ユーザーの意見を聞くこと、その不満や批判を真摯に受けとめることである。無論、顧客の話をよく聞くことはいつだって賢明な選択だが、その要求を呑んだがために、過度に複雑なデザインに至ってしまうこともある。ソフトウェア企業の有名どころの中には、自社の人間中心哲学を誇っている企業がいくつかあるが、まさにこの問題には悩まされている。ソフトウェアをアップグレードするたびに、ますます複雑に、ますます理解しづらくなっていくのだ。人間ではなく行動を見定める行動中心哲学は、この誤りを防止する傾向にある。その結果、まとまりのよい、高度に分節されたデザインモデルが生まれる。ユーザーの意見がこのデザインモデルにフィットしないなら、それは切り捨てるべきだ。いやまったく、誇らしげにユーザーの声を聞き、それを取り込んでしまう企業の何たる多さよ。

ここで求められるのは、行動上の要件から見てユーザーの意見を検証・評価できる、力強く権威あるデザイナーだ。必要とあらば、要求を無視できる能力も欠かせない。これが、一体感とわかりやすさにつながるゴールとなる。逆説的だが、ユーザーを満足させる一番の方法が、彼らを無視することだという時もあるのだ。

ちなみに、この哲学はサービス業の分野にもあてはまる。だからサウスウェスト航空は、座席の予約システムがないこと、乗り継ぎ便への荷物の移送を行わないことという、乗客がもっとも不平をこぼす二つの問題を無視していながら事業を成り立たせている。彼らは、低価格で信頼性の高い輸送こそが自社の戦略的優位の中心だと位置付け、行く先々でスピーディなターンアラウンド(※)を実践する必要があったのだ。乗客は文句を言いながらも、サウスウェスト便に乗ろうとする。

(※)訳者注:航空業界の用語で、寄港や着陸をしてから、乗客や貨物の積み下ろしや燃料補給などを行って再び出発するまでの過程や時間のこと。

時には、「ユーザーの言うことなど気にするな。彼らにとって何がベストか、自分にはわかっている」と断言する、独裁者のようなデザイナーが求められることもある。アップル社の場合を見れば、それがありありとわかる。アップル製品は長いことその使いやすさで賞賛されてきた。にもかかわらず、アップルはその看板とも言える名高いヒューマンインターフェースデザインチームを、たった一人の権威的な(独裁者的な)リーダーと入れ替えてしまった。それによって、ユーザビリティは損なわれたのだろうか? その逆だ。アップルの新製品は、偉大なデザインの典型とみなされるようになっている。

「ユーザーの声を聴くべし」とすれば、まとまりに欠けたデザインが生じる。しかし「ユーザーを無視しろ」となると、私が概念的モデル(Conceptual Model)と呼んできた、製品の明確なビジョンが担当者の頭になければ、恐ろしい事態が生じかねない。担当者はそのビジョンに従い、他に目につくことがあっても平気でやり過ごさねばならない。そう、顧客の意見はよく聴くべきだが、いつもその言いなりになる必要はないのだ。

では、HCDコミュニティが採用してきた手法をよく考えてみよう。それは行動ではなく、人の方に力点を置いていることが珍しくない。そういう事細かなシナリオやペルソナの数々を見てほしい。さあ、それらがデザインに役立つ情報を与えてくれたと心から実感している人はいるかな? それが37歳のシングルマザーで、MBA取得のための夜学をしているペルソナだと知ることで、コントロールパネルの配置や画面レイアウトを決めたり、もっと大事な問題として、適切な操作シーケンスをデザインするのが本当に楽になっただろうか? ユーザーモデリングが、きちんとした手法に基づいていようがいまいが、ただどんな技術を採用すべきか決める上で役立っただろうか?

HCDの原則に従って開発されたメジャーな技術や、ラピッドプロトタイピング/テスティング、ユーザーモデリング、あるいはユーザーに適応する技術の実例があれば見せてほしい。わざわざ「メジャーな」と言ったのにはわけがある。これらの技法を用いることで多くのプロジェクトが、おそらく劇的とも言えるほどに改善されたことは疑いようがない。だがこんな風に、我々の技術において生じた根本的な、メジャーな機能強化の例を一つでも挙げられるだろうか。

HCDはよい製品を保証するものではない。それはよからぬ製品を明らかに改善することにつながる。しかも、よいHCDは失敗を防ぐだろう。ちゃんと製品が機能し、誰もがそれを使えるようにするだろう。だが、よいデザインがゴールとなるのだろうか?我々の多くが望むのは、偉大なデザインだ。断言してもいいが、偉大なデザインというものは、世間一般のノウハウなど無視して、どんなものであれ自分のコンセプトの最終形をくっきりと思い描いて突き進むという、掟破りなやり方から生まれるのだ。この自己中心的な、ビジョン志向型のデザインは、大成功と大失敗のどっちにも転ぶものだ。よいデザインに飽き足らず、偉大なデザインを目指したいなら、まさにこの道をたどるしかない。

この話題については、まだ言いたいことがわんさかある。ここで教訓めかして私が口にしているのは、そもそも危なっかしい話だ。世の中のあらゆるデザイナーが、各自の本能に従って常識的な知恵を無視するのを放っておく勇気はない。明快な概念的モデルと対になった行動を深く理解してはいないデザイナーがほとんどなのだから。しかも世間には、私と立場を異にするひどいデザインの例がたんまりあるのは間違いない。でも考えてみて欲しい、そういうダメなデザインの多くは、有益な製品なのだ。うーむ。どういうことだ? それらは、HCDのデザイン原則に従っていれば、より一層便利になったのだろうか? そうかもしれない。でも、まったく世に出ることなく終わった可能性もある。そのことをよく考えてみよう。

まあもちろん、コンピューターシステムを体系的に取り込もうとして散々な結果に終わった例は誰でも知っているだろう。それらの失敗は、人間とシステムに対する理解不足が直接の原因だった。それとも、行動に対する理解不足のせいだったのだろうか? おそらく、必要なのはもっと行動中心型のデザインであり、対応すべき行動が求めるニーズの理解が浅いことに失敗の原因があるのだろう。安全性を最優先するアプリケーションでは、行動についての深い知識こそが基盤となることにも注意すべきだ。安全性はシステム上の厄介な課題であるのが常で、関わりのある要因すべてを深く理解していなければ、そのデザインは欠陥品になってしまいがちなのだ。

それでもなお、ここで根本的な仮定をいくらか再考すべきだと思う。人間に照準を合わせると、見当違いになりかねない。人よりも活動に照準を合わせた方が、有益かもしれない。そして、ACDをHCDの代わりにするのは、これまで学んできたことを全部捨て去るということではない。活動には必ず人が関わるのだから、活動を支援するシステムはどれも必然的に、それを行なう人間を支援するに決まっている。HCDの範疇に留まらず、工業デザイン寄りの人間工学からも育んできた我々の知識と経験が、その土台となるはずだ。

どんな分野にも必ず根本的な前提がある。時にはそれを再検証し、長所と短所を見きわめ、手を加えるかそっくり入れ替えるかを検討する価値がある。HCDに関心を抱いている我々にも、それは当てはまるだろうか? その答えは、自ら実践することなくしてわかりはしない。

著者よりひとこと: この記事をさらにわかりやすくするために書いた「HCDは有害か?さらに説明しよう」も、ぜひお読みいただきたい。

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