管理者 日下九八氏と語る、ウィキペディアの現在 – Round 1

昨年10月、米国MITのオンラインマガジンに「The Decline of Wikipedia(ウィキペディアの衰退)」という、ややセンセーショナルなタイトルの記事が公開されました。
これは、ミネソタ大学の研究者アーロン・ハルフェイカー(Aaron Halfaker)らの調査論文を下敷きとしており、かなりの注目を集めました。
これを受けて、11月にはWIREDに「Wikipediaが岐路に立っている?」という記事が掲載され、また日本では「ウィキペディアの衰退」の翻訳が雑誌(アスキークラウド2014年2月号)に掲載されるなど、その反響が広がりを見せています。

ウィキペディアウェブ黎明期の2001年の英語版設立に始まり、誰もが無料で閲覧できるだけでなく、編集にも参加できるインターネット百科事典として、成長を続けてきたウィキペディア。今では、ネットでの探しものや調べごとには欠かせない存在です。しかし、先ほどの記事などが示唆しているように、その現状への批判や、存続を危ぶむ声も聞こえるようになってきました。

私はインフォメーションアーキテクトという立場から、ウィキペディアとその基盤技術となっている「ウィキ(Wiki)」の仕組みに、以前から関心を抱いてきました。そこで、メディアの報道だけでは知りえないようなその実態はどうなっているのか、また、現在のウィキペディアを情報アーキテクチャの観点からどう理解すればよいのか、今こそそれらをより深く探る価値があるのではないかと考えたのです。

そこで、幸運なことに以前からFacebookでの交流を持たせていただいていた、日本語版ウィキペディアの管理者のお一人である 日下 九八(くさか きゅうはち)氏にお会いして、お話をうかがうことにしました。(以下、敬称略)

参考情報:ウィキペディアの基本を知るために
ウィキペディアの簡単な紹介管理者とはビューロクラットとは方針とガイドライン

わかるようでわからない、ウィキペディアという存在

浅野
取材をご快諾いただきまして、ありがとうございます。身分を明かさずに活動なさっているケースがほとんどであるウィキペディア管理者の方に直接お会いできるのは大変貴重な機会ですので、今日はぜひいろいろなお話をさせてください。

日下
いえいえ、こちらこそよろしくお願いします。

最初に立場を明らかにしておきましょう。ぼくはウィキペディア日本語版の編集に参加していて、あまり記事は書いてなくて、管理者ではあります。ほかにもいくつか権限を持っていますが、ウィキペディアでの「管理者」というのは、ちょっと特殊な立場で、コミュニティを代表するわけでも、他の編集者と比べて、偉いわけでもないんです。運営母体であるウィキメディア財団との雇用関係もない。編集作業に参加している一人のボランティアの、個人的な意見だということでご了承ください。
あと、何か偉そうに語るかもしれませんが、今日話すようなことは、自分の専門じゃないことばっかりのはずですので、基本的な間違いとか、言葉の使い方の不適切さがあると思いますが、ご寛恕ください。

浅野
早速ですが、この「The Decline of Wikipedia」については、日下さんもTwitterで言及なさっていましたね。

日下
はい。WIREDの時も、アスキークラウドの時も、TwitterかFacebookか、どこかで何か書いていたと思います。アスキークラウドの記事は、表紙の印象と比べると、記事としての批判はまっとうなんだけど、冒頭でややこしくしちゃった感じがするんですよね。それって、ウィキペディアのコンテクストというか構造というか、そこらへんが見えてなかったところで、批判の矛先がわかりにくくなってるのかもしれない。

ツイートにも書いたけど、著者が言いたかったのは、ハッカー文化みたいなものも含めたウィキペディア的な理想像の衰退、だと思うんですよね。その理由として、象徴的なのがウィキペディアのコミュニティの官僚化だ、と。

浅野
アスキークラウドに載った翻訳も、ちょっと「えっ?」と思うようなものだったんですよね。たとえば「bureaucracy」は「官僚制」なのに「官僚主義」と訳していたりして、まったくニュアンスが違ってしまっている。かなりバイアスがかかっていると感じたのですが。

日下
ぱっと見では、かなり否定的に見える。でも、ぼくはウィキペディアの実際を知っている、浅野さんは英語力がある。そういう立場で読むと、記事自体はそれほど否定的でもなくて、アスキークラウドに悪意があるように映りますよね。あの表紙の作り方とかにしても。
でも、実は悪意じゃなくてわかってないだけかも、という気もする。確かにウィキペディアの存在って、すごいわかりにくいと思うんですよ。ぼくらは参加してるからわかっちゃってるけど、外から見たらわからない部分があるはず。ぼくらがこうやって誰かに説明する時には、どういうところがわかられてないのか、それを探るようにしないといけないな、とは思ってます。

情報を理解するための「コンテクスト」って、どういう意味?

実は、そもそもこの取材の背景として、浅野が自身のブログに書いた「コンテクストの逆襲」という記事をめぐって、Facebookでのこんなやり取りがありました。

日下
IAてのが何かよくわかってないですが、情報とかその流通の構造とかには興味があります。これ「コンテクスト」の話というよりは、術語やその説明に用いる表現の妥当性の話だと思って読んでます。

ぼくは、アーキテクチャって言葉は、何言ってるかよくわかんないんですよ。「構造」と言い換えるなら、わかる。でも、ストラクチャ(構造主義的なニュアンス)とは違うのか?とか考えてよくわからなくなる。「知識」とか「学び」もそうですね。知識で言えばマーケティングで消費者知識ってのがあって、ナレッジマネジメントがあって、人工知能とか認知科学があって、知識社会があってなんだか情報と似たもの扱いされてて、認識論から科学哲学とか論理学とか言語哲学とかややこしい話もあって。そういうところは、今度は、他分野の人とのコミュニケーションで、可視化されないわかりにくさにつながっていると思うんですね。

で、閉鎖的な学問であれば、術語として定義しちゃえばそれで通用するんだけど、社会と関わりがある分野では、一般的な用語との連続性を持った表現に落とし込んでいくのが好ましい。

そして、浅野さんが「コンテクストの逆襲」という記事で考えようとしている「コンテクスト」は、その対象が見えてくるにしたがって、もはや「コンテクスト」という曖昧さを持つ言葉じゃない言葉で表現されるようになっていくんじゃないかな、と。あの記事に書かれていることは、そこに向けての過程として、おもしろいなあ、と思ったんでした。

浅野
そもそも「定義」という行為そのものが再定義を迫られているということが、私が非常に強く感じているポイントです。たとえばコンテクストという言葉にしても、辞書に載っているような定義というのは固着した「言い換え」にすぎず、ほんとうの定義はその言葉がコミュニケーションの場で立ち現れる瞬間にその当事者の間で成立するというか。

日下
そう。定義って何?ということをぼくも考えてるんです。最後に書いたとおり、宣言的に定義するというのはわかりやすい。数学が典型ですね。で、ある学問領域で、とにかくこれはこう、と定義することもできるだろうし、それは領域内では有効だろう。その外側は、どうなってるんだ、どうするのがいいのか、と。

たぶん、ある定義なり用例があって、社会で使われて、変化したりしながら、定義らしきものに再帰していくんだろう、とは思うんです。そこで、どういう枠組み(概念、意味、言葉、社会とか)を使うのがいいのか、と思いつつ、いや、それは今はどういうふうに考えられているのだろう、と。おそらく言語学で、意味論周辺てことになるのかなと思うんだけど、うまく見つからない。社会言語学とかちがうっぽいしなあ、とか。

ほんとうの定義はその言葉がコミュニケーションの場で立ち現れる瞬間にその当事者の間で成立するというのは、個々人のコミュニケーションを記号論的に捉えるなら、その通りになるってことになるんじゃないかな。でも、それは「ほんとうの定義」じゃなくて、「両者の間で共通理解される意味」と言い換えたほうがしっくりくると思う。

浅野
「両者の間で共通理解される意味」、まさに実体はその通りですね。そして、たぶんそれが従来の「定義」の座を奪いつつあるのではないか?ということが、私の気になっている問題なのかもしれません。ウィトゲンシュタインは、世界が言語の中に反映されうるためには、それが言語と同じ構造を持たねばならないというようなことを言っていて、えーそんなの世界が先にあるんだから逆でしょーと凡人は思ってしまうところなのですが、確かに私たちが言語というツールで世界を語り得るためには、むしろそれは必然なのかもしれないという気がしてきました。

日下
だから、定義と言う言葉を使わずに「両者の間で共通理解される意味」という表現をとることで見えてくるものがあるのではないかと。「定義」というと、「両者」ではないからね。「定義」を考えるなら、一般性みたいなことを含めなければならない。ここで浅野さんが言わんとしていたのは「定義」ではなかった。「コンテクスト」でも同じじゃね?というのがさっき書いたことかな。

あと、定義に話を持ち込むなら、ウィトゲンシュタインじゃなくて、クワインのホーリズムだと思う。


では、今回の対談に戻りましょう。

浅野
…というようなFacebookでのお話があったので、クワインについてちょっと調べてみたのですが、まさに私の知りたかったことが述べられていると感じました。「ひとは何ごとを語るにも、自分たちの信念体系の中からしか語ることができない」。だからこそ、それらのことばを用いるための前提となる、日常的な信念体系や科学的な理論体系という「コンテクスト」を明らかにし、それをコミュニケーションする相手と共有することが、そのことばを「理解」するために不可欠となる。
それが、まさにくさかさんと私が話っている「定義」にまつわる問題なのだろう、と。

ウィキペディアの「情報アーキテクチャ」を考える

浅野
私が携わっている情報アーキテクチャという仕事は、ウェブサイトやアプリなどを設計する上で、その「ユーザー/コンテンツ/コンテクスト」という3つの要因を分析することから始まります。そういう観点から現状を把握するために私がおたずねしたいのは、ウィキペディアにおけるその3つの要因の関係を、日下さんがどう考えていらっしゃるのかということです。それが、アスキークラウドやWIREDの記事が指摘する問題とどう絡んでいるのかを知りたいのですが。

日下
このやりとりのきっかけになったのは、浅野さんという人が、ぼくの関心とよく似たことを、まったく違う経路から、かなり違うはずのバックグラウンドを持って、どうもよくわからない言葉を使って考えているんだなあ、という思いなんですね。それが面白いと思って、反応した。今も、実は「情報アーキテクチャ」ってのがいまいちよくわからないし、「ウィキペディアにおける情報アーキテクチャの要因」ってのが何を指すのかってところから、うまく把握できないんですが(笑)。

ともかく、まず百科事典というのは、日常的な信念体系や科学的な理論体系という、いろんな人のいろんな話題=テクストに対する「コンテクスト」を明らかに、つまりテクストとして提示するものですよね。だから、信頼性に難があるとされつつも、アクセスしやすさから、ウィキペディアはこれだけ便利なものとして使われるようになった。

でも、浅野さんが注目している「ユーザー/コンテンツ/コンテクスト」っていうのは、違うことなんですよね。

浅野
いえ、違うことではないですよ。ウィキペディアにおいては、日下さんがおっしゃった「いろんな人」というユーザー、「いろんな話題」というコンテンツがあり、そのコンテンツの文脈や背景というコンテクストもあれば、ユーザーの利用状況というコンテクストもある。だから、それら3つの要因を分析し、あるべきシステムを組み立てる材料とすることは、まさに情報アーキテクチャという作業そのものということになるので。

日下
いや、違うと思うけどな(笑)。じゃあ、まず、記事の話からいきましょうか。

ツイートしたことを、再構成しましょう。

アスキークラウドの記事は、閲覧者が減っているように印象付けられるけど、問題とされるのは、ウィキペディアの参加者、編集者の減少であり、新規参加者が増えていないということ。

その理由は、いくつかある。ウィキペディアの認知度が上がり、荒らしや初心者の編集が増えた。ボットや取り消し/巻き戻し機能などによって荒らし対策が効率的になったが、新規参加者への障壁にもなった。コミュニティには官僚的なところが生じていて、これも障壁になっている。財団は、いくらか対策をしようとしていて、そのひとつ、ヴィジュアルエディタの導入は、コミュニティの合意が得られず、うまくいかなかった。これを、財団の方向性に問題があったとみるか、導入させなかったコミュニティに問題があるとみるかは、判断が分かれるところかな。

一方、記事では触れられていないけど、特に英語版での質・量の発展は、簡単には記事を書けないという状況を生んでいます。多くの人が書きたがるであろう、ポケモンや地元の記事は既にある。英語版は、もっと学問的な項目も充実しています。じゅうぶん発展していないとされるのは、アフリカの地理や女流作家の記事ですが、これらに手をつけようとする人は、そうそういない。ほんとに百科事典作成に没入して、いちから調べてでも書く人も、最初から十分な知識を持っている人も、そうそういないわけです。初心者も、これまで執筆を続けていた人も、手を出せるところがなくなってきている。
執筆は難しくなって、編集から離れた人もいるだろう。メンテナンスは効率化されたから、人手がいらなくなって、手を引く人も出たかもしれない。減少、ってのはそういうことでもある。

そうした状況で、著者は、記事の質が維持できなくなることを懸念している。この懸念は、ちょっと矛盾しています。荒らし対策の効率化がされてるんだから、労力は減り、必要な人数は減るはずですよね。
ぼくが言ってる部分は、おおもとの論文では、簡単に検討はされているんですけどね。

Round 2 に続きます。→

Round 1
わかるようでわからない、ウィキペディアという存在
情報を理解するための「コンテクスト」って、どういう意味?
ウィキペディアの「情報アーキテクチャ」を考える

Round 2
ウィキペディアの「ユーザー」は誰なのか
コンテンツの価値は、どのようにして決まる?

Round 3
実は存続の危機とは無縁なはずの、堅牢なシステム
ウィキペディアの「書きにくさ」の理由
ウィキペディアはどんな「コンテクスト」で利用されるのか?

Round 4
名無しの「コンテクスト」は共有できない
ウィキペディアは「集合知」ではない?
公共的/利他的な見かけの裏にある「個人の自由」への意志
ウィキペディアで語られるべき「言語」とは

この記事について

  • architexture.jp にて浅野紀予が執筆した2014年1月28日付のオリジナル記事を転載しています。
  • 当記事の著作権は執筆者に帰属します。
  • 掲載している情報は、オリジナル記事執筆時点のものです。
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