管理者 日下九八氏と語る、ウィキペディアの現在 – Round 2

ウィキペディアの「ユーザー」は誰なのか

浅野
ウィキペディアの認知度が上がってそのように管理ツールもできて、荒らし対策が効率的になったわけですが、その前後で実際どのくらい管理の手間に違いが出たのでしょうか。

日下
それはわからない。英語版の事情と日本語版の事情は違うし、ぼくは英語版にはほとんど参加していない。でも、あるのとないのでは、ずいぶん違うと思いますよ。示されているデータでいうと、2005年から2007年でアクティブな編集者は5倍に増えています。参加したばかりの編集者への最初のメッセージを、ボットやツールを使って送った場合と、そうでない場合の比率が出ていますが、前者は2006年では1割未満だけれど、2007年半ばには半分、2008年半ばに7割を超えている。単純な比率で見るのも適切ではなくて、2005年10月の段階では、3,684人だった新人さんが、2007年1月には13,062人になっている。2008年10月で9,415人。2005年10月でも2008年でも、ツールを使わずにメッセージを送られた人は、およそ同程度です。うまくツールを使いこなす人が、あとの6千人にメッセージを送っている。2005年っていうのは、5回以上編集/月のアカウントが14,025、100回以上/月が1,814っていう規模です。ちなみに、2008年のほうを見ると、それぞれ40,454、4,030。

要するに、かつても今も、手動でメッセージを送っていた人数は変わらないけど、ツールができたので、ツールで送れる人数の分が格段に増えた。比率で見ちゃうと、手動で送れる人が減っているから官僚化してるように見えるかもしれないけど、そういうものではないんじゃないかな。メッセージを送る余裕がなくなってたら、継続的に参加しないと思う人は、今より多かったかもしれないんだし。

浅野
ただ、荒らし対策が新規参加者への障壁にもなっているのが事実だとすれば、日下さんご自身は、それをどの程度重大な問題としてお考えですか?

日下
重大ではあるけど、唯一最大の問題というわけではないし、解決は簡単ではない。これは、トレードオフなわけですよね。荒らし対策も、新規参加者のケアもしないといけない。荒らしが増えてたら、それが嫌で参加しなくなる新規参加者だって増える。

浅野
そもそもウィキペディアでは、五本の柱に代表される「規範」を定めて、日下さんのような有志による自主管理体制をつくることで、本来は誰でも自由にいじれるウィキという技術的アーキテクチャの弱みを補完しているわけですよね。たとえ協力者の属性に多少の偏りがあっても、「一般性を含む定義」を実現しやすくなっているはず。
ですから個人的には、仕組み上は万人が作成者/編集者になれるからといって、実際にそうなる必要はないと考えているのですが、日下さんはどう思われますか?

日下
自由にいじれるウィキという技術的アーキテクチャは「強み」ですよ。そこは逆。誰かは参加できなくてもいいっていうようなシステムは、かえって作るのが難しいし、誰が線を引くかってことも含めて、人の線引きも難しい。

浅野
なるほど、確かにそれはそうかもしれませんね。実は私自身も、何度か自分の手で編集してみようと思いながらできていないので、それは我ながらマズいなと感じているのです。

日下
ぼくらからすると、編集できないのはなぜなんだろう?と思うんですよね。何か障壁がある。その理由がわかれば、それに対する対策はやろうと思えばできることが出てくると思うんだけど…。編集できちゃう人ってのはいっぱいいるわけですよ。とにかく編集しちゃう人。お前もうちょっと待て、ってことも多々あるんですね(笑)。だから、それぞれに対して対策、対応をしなきゃいけなくて、どっちかをなんとかしようと思えばもう片方が難しくなるという、ダブルバインド。

浅野
WIREDの記事で、「協力者は、大部分が男性で西洋人だ。要するに、拡大するネット人口を代表しているとはほとんどいえない」と言われていますが、たとえば女性がいっぱい参加する必要ってあるんでしょうか?…そこがあまりピンと来ないんです。まるで編集者の性別や人種などの属性が、実際の人口比を反映してないといけないような言われ方をするのはなぜなんだろう、と。個人的には、ある程度限定されたエリートが書いてる世界でもいいんじゃないかと思うのですが。

日下
エリートが編集している現状は確かにあるので、少なくとも運営側からしたら、誰でも参加できるというものである以上、何か参加障壁になるものがあるとしたらそれは取り除いた方がいい、っていう発想は正しいと思う。ただ、当人たちの自覚していないようなバイアスがかかることへの懸念というのはあるよね。

でも、たとえば編集者の男女比が人口比に一致しないのは、ウィキペディアの問題というよりも、社会としての問題というのは、その通り。

浅野
はい。ウィキペディアに限った話ではないですよね。大企業の重役に女性が少ないというのと同じで。

日下
そうそう。だからそれは、もっと大きい社会の問題で、それが実態として解決していない。制度上、平等になったとしても、それが実際の雇用なり地位なりに反映されて初めて、ウィキペディアの編集者数にも反映されるようなものだと思います。偏りがあるという意識はしないといけないけれど、そんなにこだわるところではない。

コンテンツの価値は、どのようにして決まる?

浅野
アスキークラウドの「世界6位の巨大サイトで利用者が4割減」というコピーはミスリーディングで、 減っているのはコンテンツ作成者/編集者としてのウィキペディアのアカウント登録者のことであって、一般的な閲覧者が減っているわけではない。ということは、ウィキペディアのコンテンツ価値は低下していないとみなしてよいのでしょうか。

日下
単に“利用者”って誰だと思いました? 世界6位のトラフィックを誇る百科事典サービス、と紹介するなら、その利用者は閲覧者ですよね。閲覧者が減ってるわけじゃない。ミスリーディングと言ったのは、そういう指摘です。「世界6位の巨大サイトで、ボランティア編集者が4割減」なら、正しく、かつショッキングな見出しになってたのになあ、と。

コンテンツ価値っていうのが、よくわからないなあ。価値は、閲覧者数で決まるわけでもないと思いますし、減ったからといって下がるわけではない。百科事典プロジェクトの参加者としては、コンテンツの価値というのは、記事の質です。ウィキペディアが始まる前の百科事典だって、別に価値が減じてはいないでしょう? そこは、基礎となる価値観が、プロダクツや一般のウェブサービスとは、全然違う。

浅野
ウィキペディア以前の百科事典の価値が減じてはいないということは、コンテンツの経年劣化の問題は、あまり重視されてないということですか。

日下
経年劣化はすると思うけど、この質問とは関係がない。

浅野
ああ、閲覧者の数とコンテンツの価値の間には、相関関係がない、ということですね。

日下
そうそう。一般の商業的ウェブサービスみたいなのは、ユーザー数が多いほど価値が高まる面があると思うけど、ウィキメディア財団を買収するならいくら出すか、という話じゃないですよね。
ちょっと突っ込んで言うと、ウィキペディアはすべてクリエイティブ・コモンズの「CC-BY-SA」によって書いた人に著作権があるので、ウィキメディア財団が保有しているコンテンツ自体がほとんどない。運営もボランティアがメインだから、財団がその種のノウハウを持ってるわけでもないし。

浅野
価値というものにも2種類あって、そのものに内在している価値と、外側から評価されて生まれる価値があると思うのです。誰も見なければ、いくら良い情報でも価値がない、という考え方もある。でも、そうとは限らないということですね。

日下
そう。で、それは浅野さんだけがそう思ったってことじゃなくて、アスキークラウドの記事とかが出てきたのも、そういう見方があったからだろうと思うんですよ。ウィキペディアは、そういう価値観で存在してはいないんだよね。
見る人の数や作る人の数は、質に関係してるけど、直結というほどではないですよね。記事を一定のクオリティに持っていくための指針は示されているけど、それが実現されているかどうかは別の話。それとは別に、人がいっぱいいるほど間違いは減るし、いろんな指針がプラスに働いていくためには、ある程度の人数が必要だし、基本的には多ければ多いほどいいと思う。それが実際のクオリティに反映できるかどうかは、一般則だけで決められるものじゃないと思うんですよ。すごい人が一人で書いた記事のクオリティが高い、ということは当然あるわけだし、中学生がよってたかって編集した記事のクオリティがいまひとつだということもある。百科事典の作り手としては、ロングテールの頭を重視するというわけではなく、尾っぽの方をちゃんとしましょう、みたいなところもある。

浅野
まさにそれが、アスキークラウドの記事が問題視してるところですよね。

日下
でも、ぼくら管理者や、ウィキメディア財団が、具体的にどの記事にもっと手を入れた方がいいとか、そういうことを指示できるわけじゃないですからね。ウィキペディアの外の人は、それをぼくらがコントロールできると思っているのかな?って感じる。で、ぼくらがそれを怠っているかのような言われ方をしている気がするんですよ。管理者なり財団の役割が、誤解されている。そういう仕組みはないし、現実的に次はキミこれやってくださいと言われてもできないと思うので。アスキークラウドの記事みたいな指摘についてはなるほどとは思うし、指摘していただいてありがとうございます、と。でも、その解決には時間かかるかもしれませんね、ってことになる。

浅野
すでに蓄積されたコンテンツのうち、MITの記事で指摘するようなマイナーな項目は確かにまだ足りないかもしれませんが、マイナーな項目になるほど、そもそも百科事典にのせる価値があるのか微妙なはずですよね。しかもそれをボランティアで作成/編集できるかというと、よほど強力なモチベーションやインセンティブがないと無理なので、マイナーな項目が少ないことを過度に問題視しても意味がない気もしますが、いかがですか?

日下
たとえば、家をどんどん掃除していって、だいたい綺麗になったけど、冷蔵庫の下とか、レンジ周りとか、屋根裏とか、面倒なところ、気付きにくいところがまだ終わってない、みたいなことだよね。でもまあ、過度に問題視する必要はない、ですね。でも、問題だと認識しておくことは大事。

価値がないものと、価値があるものは、あらかじめ区別しないと話が混乱すると思う。知られていないけど価値はあるものってありますよね。それが、今問題とされている項目なんだけど、知られていない分、記事がないこと、不完全なことも、気付かれにくい。マイナーな分野は、その分野の専門家にとって、ウィキペディアを編集することでインセンティブがあるんですね。だから、工夫のしようはあると思いますけれども。

よく日本語版が、読むのも書くのもいわゆるサブカルの項目ばかりだと言われるのは、日本では他の国よりもサブカルの地位が高いってのもあるし、そういうものに興味を持つ大人もいるし、子どもたちにも簡単に編集できる環境が与えられているってのもあるわけでしょ。そういう環境があれば、そりゃサブカルの記事は増えると思うんですよ。それは必ずしも悪いことじゃないし、ネガティブに捉えなくてもいい。ただ、百科事典を作る上でそこからどうするか、っていうのは、難しい話になると思うんですよね。そういう人たちが、サブカルからより興味を広げるにはどうしたらいいのか。あるいは、サブカルと呼ばれる項目のクオリティを、百科事典的な記事の水準に高めるためにはどうすればいいのか、ってことを考える方が、ポジティブだと思う。

浅野
でも、メディアはそういう風に見ないで、逆の方向に目を向けるんですね…。

日下
そこは、それもやっぱり気づけないんだと思うんです。ポピュラー文化研究なんて、最近の学問です。サブカルだと、記事をちゃんと書こうと思ったら、読者や産業やメディアにまで広げないといけない。偉い人、有名な人だけを対象にもできない。

そういう気づきってのは難しい。いくつかの事実があるとして、それを見ていろんな人が「これはこういうことだな」って思うわけじゃない? で、みんなが思ってることは個々人の主観ではあるんだけれど、それだけではなくて、あまり厳密ではないかもしれないけど論理的な帰結としてこういうことだ、ものもある。両者が一致することってのは相当数あると思うんですよ。それに合致しているかいないかを判断するには、より多くの情報を知ること、気づきが必要なわけ。

浅野
おお、まさにこれじゃないですか(『論理哲学論考』を手に取って)。

日下
それ読んだのずいぶん前なんで、もう覚えてない(笑)。もうちょっと言い換えるなら、論理的な演繹って、あたかも誰でも即座にできるように思われてるでしょ? でもそうじゃなくて、演繹するには時間がかかるし、どう進めるかって、気付きが必要ですよね。それに、印象、感想、批判っていうのは、解釈の幅っていうか前提の取り方によって、対立し得るかもしれない複数の論理的な帰結に向かうわけじゃん?

浅野
…なんだか、どんどんややこしくなってきましたね(笑)。

日下
っていうことを踏まえた上で批判するなり評価するなりするようになればいいんだけど、今のところウィキペディアに関しては、それに至るための情報というのが、うまく明示されてない。参加者側が言葉にしていくことも必要だし、外から見ている、いろんな分野の人に言葉にして欲しいなってぼくは思ってるので、こういうお誘いは嬉しいんです。
インフォメーションアーキテクトの人から、あるいは情報学の人や教育分野の人から、それぞれウィキペディアはこういう風に見える、っていうのがわかれば、ぼくらウィキペディアに詳しい側の人間が、それはこうじゃなくてこういうことですよ、って説明できることもある。そういうのがだんだん積み重なっていくと、お互いの誤解は減らせると思うんだよね。

Round 3 に続きます。 »»»

Round 1
わかるようでわからない、ウィキペディアという存在
情報を理解するための「コンテクスト」って、どういう意味?
ウィキペディアの「情報アーキテクチャ」を考える

Round 2
ウィキペディアの「ユーザー」は誰なのか
コンテンツの価値は、どのようにして決まる?

Round 3
実は存続の危機とは無縁なはずの、堅牢なシステム
ウィキペディアの「書きにくさ」の理由
ウィキペディアはどんな「コンテクスト」で利用されるのか?

Round 4
名無しの「コンテクスト」は共有できない
ウィキペディアは「集合知」ではない?
公共的/利他的な見かけの裏にある「個人の自由」への意志
ウィキペディアで語られるべき「言語」とは

この記事について

  • architexture.jp にて浅野紀予が執筆した2014年1月28日付のオリジナル記事を転載しています。
  • 当記事の著作権は執筆者に帰属します。
  • 掲載している情報は、オリジナル記事執筆時点のものです。
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