管理者 日下九八氏と語る、ウィキペディアの現在 – Round 3

実は存続の危機とは無縁なはずの、堅牢なシステム

浅野
くさかさんが2012年4月に公開された論文「ウィキペディア:その信頼性と社会的役割」に、以下の記述があります。

ウィキペディアは,例えば論文や新聞記事に引用できるほど信頼性の高いものにはなりえない。大学生がレポートを書く上で,最初のとっかかりとして使う程度のものであり,むしろその大学生が調べた後に編集することで質を向上させることが望まれる。読者のメディア・リテラシーによって信頼性についての留保をつけながら,発展させるものである。

私もまさにこれが閲覧者としてのリーズナブルな利用方法だと考えていて、オンライン百科事典の信頼性が原理的に100%保証されない以上、各自の責任とリテラシーにおいて適材適所で利用すれば済む話だと思っていますが、記事の信頼性のレベルは、荒らし対策の実施以降、どの程度回復したと思われますか。また、現在の正確性のレベルは、必要充分なものだとみなせるでしょうか。

日下
荒らし対策と信頼性のレベルは、あんまり関係ない。関係ないと思いません? 必要性、充分の水準も変化するので、なんともいえないです。
なんだかこれは、WIREDとかアスキークラウドの記事を読んでちょっとウィキペディアのことを調べた人が、抱きがちな質問だと思うんですよ。でも、そうじゃないんだよ、っていう対話を、今している(笑)。

浅野
あはは、そうですね。だからみんな、わたし自身も含めて、やはり雑な理解をしてしまうんですよね。それで誤解しちゃう。
あと、ウィキペディアの運営については、どの記事もそれが財団によるものとコミュニティによるもののどちらを指すのか示されていないのが問題ですが、いずれについても、日下さんご自身が存続の危機をお感じになることはあるのでしょうか。

日下
存続の危機は感じてないです。財団のほうで言えば、寄付の額は増えていますし、スタッフの数を増やしています。コミュニティのほうも、まだまだ深刻な状況ではないと思いますよ。大変なことになったとしても、閲覧者がいれば寄付はされるだろうし、減ればコストが下がる。どっかで更新停止してもいいんですし。

浅野
更新停止するというのは穏やかでない気がしますが、ウィキペディアの場合はそうじゃないんですよね。

日下
存続が問われるような事態になってたら、既に穏やかじゃない(笑)。印刷された事典の場合で言えば、刊行された時点から次の版が出るまでは更新されません。ウィキペディアで言えばすべての更新が停止していることになるでしょ? ウィキペディアもそういう風にすれば、トラフィックとサーバにかかる費用は相当抑えられる。で、再び盛り上がったら再開します、ということにしておけば、それはそれで十分じゃない? だから存続しないってことは、たぶん、ない。もし財団がウィキペディアやーめた、あと一ヶ月で全部つぶしちゃうよ、って言ったら、…どうなると思います?

浅野
…… 誰かが抜くでしょうね、全部のコンテンツを。

日下
データベースダンプ落とせるページが、ちゃんと用意されています。ライセンスは「CC-BY-SA」ですから、誰でも再配布できます。ウィキペディア使ってデータマイニングしてる研究者のところには、すでに確実に一通り残ってるしね。で、サーバやトラフィックのことそんなに気にしなければ、どっかの機関とか大学がアーカイブとして取っておこうとするよね、たぶん。時間がたてば歴史的価値も出る。記事の質の中途半端さは、この時代の社会の教育やインターネットとの関係を分析する上でも使える。そのあと誰かが、オレがジミー(・ウェールズ)の志を引き継ぐぜ!とかいうことになれば、ライセンス上の問題がない以上、なんの引っかかりもなく再開できるよね。そういう意味では、ずっと続くことは続くと思う。

浅野
まあそうですよね。なくす理由がない。財団という組織はともかく、少なくともコンテンツそのものの方は。

日下
うん。コンテンツはなくならないはず。いま仮にロサンゼルスで何かあってサーバが物理的に破壊されても、少し前の状態でよければ復旧できる。だから、ほんとに大事な何かを将来に渡って残すストラテジーとして、ウィキペディアに書いておくっていうのは、すっごい合理的だと思う。完全に分散して管理されてて、複製が容易だというのは、そのデータが完全に消滅しないための最大のディフェンスですよね。それが、書くためのインセンティブにもなりうる。

浅野
ああ… そういうことですね。確かにそれは今まで盲点だったかも。自分のホームページなんかに書くよりよほど安全確実に残る。比べものにならないほど。

日下
そう。印刷物ってのはまた別の強みがあるんだけど、ホームページやブログや電子出版物に比べたら、ぜんぜん耐性が違う。

ウィキペディアの「書きにくさ」の理由

浅野
私自身がウィキペディアの編集に手を出せない話に戻るのですが、自分の立場や状況による比較的シンプルな書きにくさ、障壁とは別に、そもそも百科事典を書くのは難しいっていう意識の壁があると思うのです。どこまで書けば必要十分か、というのが判断できない。

日下
それもあるし、他にもいろんな難しさがあって、項目の内容によっても全然事情が違うから、それぞれに対策を取るのは難しくなってくるよね。

浅野
それがまさに、コンテクストが予測しきれないものだから、というのと同じことではないですか?

日下
コンテクストが予測できていないっていう自覚をまず持つことが必要なわけですよ。

浅野
えーと、どっち側がですか? 日下さんのような、管理する側がですか?

日下
管理側っていうか、エンカレッジ(encourage:奨励する)側が(笑)。
エンカレッジするのは、管理者じゃなくてもいいわけ。

浅野
確かにそうですね。たとえば、ウィキについてのさまざまな言論活動を重ねていらっしゃる、yomoyomoさんのようなアドヴォケート(advocate:支持者/賛同者)でもいいわけで。

日下
そう。まずは、管理者権限を持たない執筆者でもいい。でも、そういう項目ごと、分野ごとのコンテクストの違いって、伝わりにくいわけですよ。研究者だと、バックグラウンドが違う分野にうかつなこと書くと、マイナスになっちゃうこともある。でも、いろんな分野のことに、包括的にものを言える人なんてそうそういない。だからすごく難しい。

浅野
当事者性の問題についてはいかがですか。自分の専門分野について書くのがインセンティブになるということは、当事者のモチベーションが一番高くなるとは思うのですが、書くのは必ずしも当事者でなくてもいいわけですよね。
でも、WIREDの記事に出てきた「アフリカの地理」を例にすると、それについて必ずしもアフリカの人が書く必要はないのだけれど、じゃあ誰が書くんだということになる。ということは、やはり当事者性が大事になるのでしょうか。

日下
違う違う。そこは記事一般に広げちゃだめ。大抵の記事は専門家じゃなくても書けるわけですよ。

浅野
あ、そうか。「検証可能性」のおかげで、そこには必ずソースがあるわけですから、そうなりますね。スクラッチで書くわけではないので。

日下
それに対して、ニッチな分野、マイナーな分野、マイノリティ周辺の話題は、そもそも十分なソースがあるかどうかわからないし、アクセスしにくいから、専門家でないと書きにくい。でも、ニッチやマイノリティの分野の専門家にとっては、自分たちの研究対象、使っている概念を普及させることに価値を見出せる。記事の性質によって、書くべき人、書くであろう人は、変わってくる。英語版において残された分野については、むしろ専門家にアプローチした方が、効果的に記事を充実させられるんじゃないかなあ。

日本語版とかだと、まだまだ項目数も記事のクオリティも英語版には劣っているので、みんなが編集できる余地はいっぱいある。英語版は特殊な領域に入っちゃってる。それを他の言語版に敷衍させて批判するのは、安易すぎると思うんですよね。ただ、日本人でもそこそこ英語が読める人なら、ちゃんとした情報を求めようとするなら英語版を使っている人はいっぱいいる。そうすると英語版の状況っていうのがすごく大事に思うんだけれど、プロジェクトの発展という面で言うと、主要3言語版(英語、ドイツ語、フランス語)と、逆にかなりマイナーな言語版には、財団もコミュニティも目を向けやすいけど、そのどちらでもない、順位で言えば4位から20位くらいの、そこそこ充実しているその他の言語版をケアすることの方が本来は大事なんじゃないかと、個人的には思っている。財団もそこは考えているみたいですが。

ウィキペディアはどんな「コンテクスト」で利用されるのか?

日下
ともあれ、ウィキペディアがんばれ、って、外から言われてもどうしようもないので、がんばれって言うならあなたも書いてくださいよ、って言うしかない(笑)。たとえばさっきの「情報アーキテクチャ」という項目だって、浅野さんみたいな人が書いてくれればいいんですけどね。

浅野
まったくその通りです(苦笑)。

日下
今この場所って言うのがすごく典型的で、ぼくは情報アーキテクチャってものを知らないんだけど、それに関わっている人からインタビューを受けるっていうことがたまたま起こったわけですよね? そうすると、ぼく別に情報アーキテクチャのこと積極的に知りたいわけではないんだけれど、この取材のオファーを受けたところでは、知っておいた方がいいなと思うわけですよ。

浅野
まあ、そうですよね。たとえば前日の夜にちょっと予習しておこう、みたいな感じで。

日下
そうそう。そういう時に、百科事典を見るわけ。ちゃんと知りたいなら、なんかもっとごっつい本を買って勉強始めればいい。ちゃんと学ぶつもりはないけど、ざっと知りたい。百科事典って、そもそも、そういうもの。それでだいたい十分だと思うんです。その程度のことをしっかり書ける人が、専門家。ただ、専門家が書いちゃうと、専門家が常識としてることを一般常識のように書いちゃうので、他の人には結局わからなかったりもするんですけど。

浅野
そこでまたコンテクストの話になるんですよね。自分が何をベースにして書いてるのか、ってところを説明しないといけない。

日下
そう。だから、IT用語事典みたいなやつで「情報アーキテクチャ」のところを読むと、ぼくには何言ってるかまったくわからない(笑)。ウィキペディア日本語版のページを読むと、もうちょっとわかった気がするんだけど、まだ中途半端な感じがする。

浅野
そもそも自分が理解できたのかできていないのかって、判断が難しいですよね。ウィキペディアを読んでわかったような気になるんだけど、いやそれはほんとにわかったことになるのか?って思ってしまう時があります。

日下
… なんかすごい難しい話に向かってるんですけど(苦笑)、ある項目について書こうと思う人は、自分なりの確信に基づいてそれを書いているわけで、それは一般的にもなんとなく通用するはずなんですよ。だからウィキペディアに書いてある程度のことで、なんとなくわかった気になって話をすれば、「こいつはまったくわかってない」とは思われない。たぶん。

浅野
ああ、なるほど。

日下
よくある「にわか」レベルみたいな人だと思われることにはなるかもしれないけど。で、大抵それで十分じゃないですか。それ以上「わかった!」と確信しようと思ったら、もっとちゃんとした本とかを読まないと、それは到達できないレベルなわけなので。
じゃあ、確認するには何を読めばいいか、っていうのはつまり、書いた人は何見て書いたか。それをまずは書きましょうよ、っていうのが「検証可能性」なんですよね。

浅野
そうですよね。そう考えてみると結局、…ウィキペディアはどこも悪くないじゃないですか(笑)。

日下
うん(笑)。だから、ウィキペディアの仕組みってすごくよくできてると思うんですよ。出典が示されていないものもあるから、実際の記事として十分だとは言わない。でも、出典が示されていないなら、その程度の信頼度で読むというのは、普通のメディアリテラシーですよね。出典が示されていれば、その出版社やタイトルや著者からも、推測できる。
仕組みとしては、すごく実用的なレベルに落とし込まれた、アカデミズムの方法が、書き手側にも読み手側にも提供されている。科学とか学問とかを云々する世界の人には、ウィキペディアの方針を一回読み込んで欲しい。

浅野
そうですね。それと、昨日あらためて気づいたんですが、日下さんと定義の話をしていたけどよく考えたら定義というのは「辞書」の問題だったなと。辞書だったらウィキペディアじゃなくてウィクショナリーというものがちゃんとある。ウィキペディアは辞書じゃなく「百科事典」なんだから、定義の話はまた別なんだ!って思ったのです。

日下
… それも、難しい話だなあ(苦笑)。じゃあ、すごい雑な解決をしましょう。

ぼくは百科事典のプロジェクトに参加して、知識とか情報とかカテゴリーとかに関心を強く持つようになったんだけど、浅野さんの場合は、そのコンテクストとかコミュニケーションとかへの関心っていうのはどういうところから来たのかを、教えてもらえますか?
たとえば、科学コミュニケーターの人がそういうことに関心を持つのは当然だろうと思うし、そういう人たちが書いている本や論文はぼくも読むし、何か話をすればお互いに得るところがあると思うんだけど、インフォメーションアーキテクトの人たちがそもそもどういうことをしてるのかもわからないし、どういう観点でそこに注目しているのかもわからないので、そこを説明してもらえると嬉しいんだけど。

浅野
なるほど、ではそのあたりを説明させていただくと…

(ここで情報アーキテクチャにおけるコンテクストの意義などについてあれこれ解説させていただきましたが、浅野の説得力不足によりやや消化不良のまま、さらに会話は進みます…)

Round 4 に続きます。 »»»

Round 1
わかるようでわからない、ウィキペディアという存在
情報を理解するための「コンテクスト」って、どういう意味?
ウィキペディアの「情報アーキテクチャ」を考える

Round 2
ウィキペディアの「ユーザー」は誰なのか
コンテンツの価値は、どのようにして決まる?

Round 3
実は存続の危機とは無縁なはずの、堅牢なシステム
ウィキペディアの「書きにくさ」の理由
ウィキペディアはどんな「コンテクスト」で利用されるのか?

Round 4
名無しの「コンテクスト」は共有できない
ウィキペディアは「集合知」ではない?
公共的/利他的な見かけの裏にある「個人の自由」への意志
ウィキペディアで語られるべき「言語」とは

この記事について

  • architexture.jp にて浅野紀予が執筆した2014年1月28日付のオリジナル記事を転載しています。
  • 当記事の著作権は執筆者に帰属します。
  • 掲載している情報は、オリジナル記事執筆時点のものです。
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