管理者 日下九八氏と語る、ウィキペディアの現在 – Round 4

名無しの「コンテクスト」は共有できない

日下
コンテクストって、言語学の言葉ですよね。言語学では、あくまでテクストがあってその周辺にコンテクスト、つまり文脈、背景がある。でももはや「テクスト」は言語だけではなく動画や音声であったりデザインであったりもする。とりあえずは「観測可能なもの」であれば何でもいい、っていう風に拡張できると思うんですよね。そうするとテクストっていうのは、今ぼくらが語ろうとしている主題、フォーカスしているもの、みたいな意味に捉えればいい。そういう今まさにフォーカスしている何かを考える上で、それだけを考えていてはダメなので、さらに視野に入れるべきことっていうのが、コンテクストだよね。
コンテクスト、ってだけ言うと、何を指してるかわからないんですよ。これこれを扱う上でのコンテクスト、って言わないと。

浅野
はい、そうですね、もちろん。

日下
それが、浅野さんのブログを読んで、ずっとやり取りしてる間、曖昧なままになってた印象があるんですよ。

浅野
ああ、中心がないまま周辺の話をしてた、ってことですね、たぶん。

日下
そう。で、コンテクストってものは、テクストを決めればある程度具体化できる。具体化したら、それはもうコンテクストって言わなくていいじゃん、ってこと。

浅野
言わなくていい? … あ、それにはもう具体的な名前があるから、ってことですね?!

日下
そうそう。たとえばこのモバイル画面のアイコンのコンテクストを考えると、とりあえずこの画面と、この画面に至る前の画面、あるいはプロセスだよね。それらとこのアイコンが本来指し示そうとしている何か、ってのも要素のひとつ。その上で、このアイコンを見た人がどういう意味を受け取るかってことを考えなければならないはず。そういうコンテクストの構造を理解しながら何かの設計を考えるにはどうしたらいいのか。
… みたいなのが、分野としての情報アーキテクチャってこと?

浅野
そうです、その通りです。

日下
そういうことだったら、わかる(笑)。

浅野
情報アーキテクチャの3つの円で、情報アーキテクチャでは「ユーザー/コンテンツ/コンテクスト」を三大分析要因としているのですが、コンテクストってあらゆるものにまとわりついているんですよね。ユーザーのコンテクストもあればコンテンツのコンテクストもある。
そう考えると、これらを同レベルの3つの円(右図)で図式化するのはちょっと違うかもしれないですね。

日下
コンテクストって、(ユーザーとコンテンツの2つの円だけを囲むひと回り大きな円を描きながら)本来こうなんだよね。

浅野
ああ、その通りですね。周辺だから。

日下
もっと言えば、あるコンテンツにとって他のコンテンツはコンテクストだし、コンテンツにとってユーザー集団がコンテクストにもなりうる。

ちょっと面白いなと思うのは、ぼくの全然知らないところでこんなことやってる人たちがいることなんです。百科事典で言えば、情報を欲してる人がいて、その人のところにどう届けるか、それはアクセシビリティの問題もあるし、文章の書き方そのものもあるし、情報のチョイスってのもあるんだけど、それをユーザー側から考えないといけない。論文とは違うので。あるいは、情報アーキテクチャ的に言うと、芸術作品を作るってのと、実用的なプロダクトを作るのでは、ユーザーのことを考える程度が全然違うわけじゃないですか。プロダクトとかウェブページの場合は、その情報に至る何かを考えているわけですよね。
そういうことを真面目に考えていそうなのは、ビジネスの世界で言えば、マーケティング的な消費者行動論なんですよね。消費者の知識が、どう購買行動に結び付くかという話になる。ぼくはそのへんの世界ってまったく接点ないんだけど(笑)、こういうところでも同じような関心が出てくるのか、と思うし、同じような流れで、投票行動とかにもつながってる。政策についての知識が、それにどう結び付くのかって話だから。

よくわからないけど、いろんなところで似たようなことを考えている人たちがいるんだなってことを、浅野さんのブログを読んでまず感じたんですよね。そこで使われてるメソッドみたいなものは、それぞれに見つけてきてるのだろうけど、それぞれの分野での独自の考え方とか新しい視点とかがあるはずなので、それを共有できるといいなーと。で、共有できる仕組みって何かと言うと、百科事典だろうと思うんですよ。結局そこに戻ってくる。で、結局オレらが何かせなあかんのかなってことになる(笑)。

ウィキペディアは「集合知」ではない?

浅野
そういう知の共有にも関わってくると思うのですが、いわゆる「集合知」という言葉があって、ウィキペディアはその象徴だ、みたいなことを言われることも多いと思うのです。でも率直に、「集合知」と聞いてウィキペディアと結び付きますか? なんとなく、違いますよね?

日下
集合知っていう言葉の定義にもよるけれど、集合知ってのは全部足し算したものに何かプラスされている「知」だと思うんです。そういう意味では、ウィキペディアのごく初期にみんなで作った編集方針とかは、集合知だったと思う。だけど、百科事典のコンテンツは基本的に寄せ集めなので、プラスアルファというのはさほど大きいものではない。集合知を群衆の叡智って意味で考えるなら、スロウィッキーが言ってるのは予測の確度の問題なので、予測というものをしないウィキペディアは根本的に違う。

浅野
そうですね。だから、集合知ってよくごっちゃになってて、「Collective Intelligence」の話をしてる時と「Wisdom of Crowds」の話をしてる時とがありますね。

日下
そう。スロウィッキーの言う“みんなの意見は案外正しい”みたいな予測の仕組みではないから、「Wisdom of Crowds」ではない。「Collective Intelligence」の方は、もし今後顕在化するとしたら、カテゴリー構造をすごくよく考えて作れるようになったりすれば、見えてくるものがあると思う。すごくたくさんの知識ってものを、どういう風に表現するか。そういう意味での知性は、ウィキペディアの中にはたぶんある。内部に莫大な数のハイパーリンクが張りめぐらされているのも、知性の表現になってると思う。

でもそれはたぶんウィキペディアの手柄じゃなくて、基盤となっているウィキというシステムが、それを見えやすくしているからこそできているものだし、ウィキを使って百科事典を作ろうとしたジミーの手柄と言った方がいい。百科事典をコンピューターで扱うコンテンツにしようという話は大昔からずっとあったので、ジミーじゃなくてもどのみち誰かが体現したと思うんだけど、ジミーにしろウィキペディアにしろ、それをやりやすい形にして、多くの人たちを参加させたという、もっと実務的なところの手柄を評価されるべき。だから、集合知って言葉をウィキペディアに対して使われるのはすごい違和感があるし、集合知にまつわる何かについてそこから引き出せる知識みたいなものはたぶんあると思うけど、ウィキペディアそのものは集合知ではない。

… そういうことを言える相手があまりいなかったので、一人で疑問に感じてたらどうしよう、と思ってました(笑)。

浅野
そうですね。わたしも自分が日々あれこれ疑問に思うことに対して、日下さんと同じように感じていたこともあって、このarchitextureというサイトを作ったりもしたのです。ちょっと間口を広げなきゃと思って。

日下
うん、たぶんそういうことなんだろうなと思った。で、いろんな分野でそういう風に、日々の生活に広がりを持たせるための何かをしている人たちが、せっかくなんだからつながっておくといいのかなと。情報流通的な話をするとしたら、情報アーキテクチャには、もはや役に立たないかもしれないけど、図書館情報学の蓄積ってあるじゃないですか。そういうのが、まとめられてないところにたぶんいろいろあるんだから、そういうのがそっちに流れてきたら、新しい何かが生まれるんじゃないかと思う。

浅野
そうですね。今後、そういう方たちにもお話を聞きにいくとか、何か考えたいです。わたしも最近、アーカイブズ学とかに興味があるのですが、いわゆるアーキビストという職業の人たちがいることはほとんど知られていない。でも、今の情報化社会の中ではすごく重要な仕事だし、わたしたちのようなIT業界側の人間がつながっておいた方が絶対にいいので。

日下
ぼくのFacebookのタイムラインで議論してる人の中にも、アーキビストの人たちがいますよ。

浅野
そうなんですね。意外と近いところにいました(笑)。

日下
文書館の人と、博物館の人と、図書館の人、それぞれコンテンツに対する考え方がずいぶん違うから、面白いですよ。いろんなジャンルの人たちから、いろんな誘いを受ける。すると、つながってるようでつながってないところがすごいいっぱいあることに気づくんですよね。一方で、すごく狭い、限られた世界っていう面もあるから、つながってると思ってなかったら繋がってたってこともある。

公共的/利他的な見かけの裏にある「個人の自由」への意志

浅野
だから、ウィキペディアの話は結局、… 全然心配することないよ、って結論になりそうなんですけど(笑)。

日下
大きな問題は、むしろウィキペディアの外側にある。それを解決する上で、ウィキペディアの存在は、意外と役に立つ。役に立てるものになりきれてない、作りきれてないという意味で、ウィキペディア側の問題がある。

だから、心配はしなきゃいけないけど、あの記事や論文で指摘されてる心配の仕方はちょっと違うよ、と。ただ、官僚主義ってことで批判されていた部分には正しいと思うところもあって、新しい参加者が増えない理由にはなると思うんですよね。特に、まだ書かなきゃいけないものがいっぱい残ってる(英語版以外の)プロジェクトでは、より深刻なわけですよ。そこは今ちょうど日本語版の参加者が何人かでTwitterでやり取りしてるんだけど、それぞれのスタンスを許容するための前提が明示化されてない。それを対話の中で明らかにしながら、その上で、どうするのがいいのかをグダグダと話し合ってるんです。あの指摘が正しいということが、そういう形で現れている。それをどうするのがいいのかを考えようとすると、たとえばオープンソース的な価値観を共有しているかどうかによって、とるべき対策として思いつくものや支持するものって、変わりますよね。ウィキペディアの方針であったり、MediaWikiの仕様によってできてしまう構造とかがあって、それをどう読み解くかとか。

あと、創始者の一人であるジミー・ウェールズは若い頃に、アイン・ランドという作家とハイエクに感銘を受けた。その二人って、リバタリアンの代表みたいなものなんですよ。ウィキペディアはすごく公共的で利他的に見えるけど、その二人の名前が出てくるってことは、ウィキペディアのものすごくベーシックなところには、個人個人の自由ってものを相当に尊重するというバックグラウンドがあるはずなんです。すごく雑に言うとアメリカ的ってことにされそうだけど、より正確にはリバタリアン的な自由さであるはず。でも、それが利他的なプロジェクトの土台になってるのは、かなりややこしくて面白いことだなと。

浅野
はい。ねじれてますよね。

日下
で、それをどう理解するかってのがすごくややこしい上に、そういうリバタリアン的精神みたいなものは、方針として明示されてもいないので、そういう背景があるんだってことを知るのも難しいし、それをどう解釈するかっていう難しさもある。またしばらくグダグダやり合いながら、そんなにややこしい所には踏み込まずに、効果的な対策みたいなものを誰かが思いついたら、そっちに向かったりすることにはなるんだろう。

フリーソフトウェア運動でおなじみのストールマンとかも、原始共産主義者って呼ばれたりしてるよね(笑)。本人は否定してる。それはすごい面白くて、要するに個人の自由を尊重する上での平等さ、みたいなことなわけじゃない?

浅野
そうですね。コミュニズムっていうのは社会があって、その上での話ですものね。社会とか関係ねーよ、個人の話だ、ってことですよね。たぶん、ストールマンが言いたいのは。

日下
ストールマンにしてもジミーにしても、二人がやってることっていうのは、コミュニズム的と受け取られるようなことなわけでしょ? そこに、リバタリアニズムのエゴイスティックなまでの自由主義みたいなものが福祉に向かう理屈ってのが、あるはずなんです。今の正義論みたいなところで、どの程度考えられているのかわからないんだけど、なんかそっちの世界にとっても鍵になる何かがあるんじゃないかなって。

浅野
ああ、面白いですね、それは。

日下
興味持ち始めたのが最近なんで、まだ全然調べられてないんですけどね。
フリー、オープンてことだと、ウィキペディアは、オープンコンテンツが抱える問題に、ずっと直面してきているってこともあります。オープンデータやオープンガバメントといった動きとも繋がる。ウィキペディアのフラットなガバナンスのシステムも関心を持たれてきたけど、フリーとかオープンとかってところで、身近なところの民主主義にも繋がる。情報アーキテクチャ周辺の人たちも、オープンデータの動きには、絡んできて欲しいなあ。市民、国民がユーザ。まとまった公共データがあって、データを繋ぐためのリンクトオープンデータ(LOD)があって、一方には個人情報上の制約があって、それらの構造を考え、どういうデザインで見せていくかって、腕の見せ所じゃないですか!

浅野
確かに。私たちIAとしては、まさにやるべきことが山積みですね(笑)。

ウィキペディアで語られるべき「言語」とは

浅野
また、百科事典の記事を書く上では、できるだけ解釈の相違がないようにするべきだというのは当然かと思いますが、それについても日下さんの考え方を教えていただけますか。

日下
まず、哲学で知識っていうと、正当化された真なる信念ってのがプラトン以来あるんですけど、その正当化のプロセスを「検証可能性」にしようというのがウィキペディアの態度だと思う。そのプロセスをすごい単純化して、何を見て書いたかわかるように書けばそれが正当化されてるってことにしようぜということ。で、「独自研究は載せない」ってのは、経験論否定、ですよね。何かを読んだっていうこと以外の経験は、すべて認めないっていう。すごい現実主義的な認識論と態度が、そこには示されてるんですよ。

浅野
それも、すごくアメリカ的ですよね。

日下
そうそう。それに加えて、百科事典の本文として書かれてる文章というのは、できるだけ判断の余地がない表現になったほうがいい。物理的言語って言葉があって、カルナップって人とその周辺が使ったものなんだけど、彼がまさしく、検証可能性という言葉を使った人なんですよ。

浅野
ああ、そうなんですね。

日下
定義の話でクワインを持ち出したのはなぜかっていうと、日常的な言語の定義って、宣言しても決まらないですよね。使われることによって定義が変容するので、再帰的に持ち込まなければいけないんだけれど、そこで持ち込まれるものというのは、「すべて」なわけですよね。世の中すべての何かからそこに持ち込まれる。すると、世の中のどっかが変わった時に、すべての語の定義が、変化する可能性があるわけじゃない?…というのを踏まえた上でないと、日常言語の定義の理解はできないっていうようなことを思ってて、それをわかりやすく説明してるのが、クワインのホーリズムだと思うので、ぼくと浅野さんの間では、それがすごく役に立つはずだと思った。もっと直接、そういうことを扱っている言語論があるんだろうとも思うけど、見つけられていない。

浅野
私はIAですが翻訳者でもありますので、クワインに関してはホーリズムだけじゃなくて、「翻訳の不確定性」の話にも、すごく考えさせられました。

日下
クワインの言う「自然化」ってありますよね。それは森とか川とかの「自然」じゃなくて、「自然科学」の「自然」。その自然科学の典型は、カルナップの時代で言うと、物理なんですよね。数学はすごく抽象的なので、独立させられている。ちょうど量子力学とか相対論とかで物理学に注目が集まった頃なんだけど、何かが起こっているというのを数学的な言語で説明できるのが物理学なわけじゃない? そういう感じで全部説明できたらいいね、みたいな発想だと思う。その方向性は試みられるべきだと思うし、面白いと思う。できなかったんだけどね(笑)。
厳密に論理を構築するみたいなレベルではできないだろうけど、日常ぼくらが使う中で、できるだけ物理的言語に近い、誤解を生まないような表現、多義性を持たない表現に落とし込んでいくのが、百科事典的な説明だというように考えるのがいいんだろうなあ、と。

そういう風に誰かに説明すれば、「うん」って言ってもらえそうなんだけど、これは、ぼくと浅野さんの、これまでのやりとり、読んだ本が前提なんです。より多くの人に向けての説明にはなっていないし、そうとう端折ってる。そもそもぼく自身、端折った理解しかしてないし。

浅野
わたし自身は今すごくよくわかったつもりでいるんですけど(笑)、それは自分がこの本(『クワイン』を手に取って)を読んだせいもあるということですね。これを読んだ上で日下さんのお話をうかがったから、わかったと思えたのかもしれない、と。

日下
浅野さんはその前から定義とかコミュニケーションのことに興味を持ってたからね。持ってたってことも、ぼくは知ってるし。

浅野
なるほど…。じゃあ、道のりは険しいですね。それなりの手間をかけない限り、そこまで行けないというか。

日下
せめて日本語で、こういう研究はここまで進んでます、みたいなことを簡単にわかりたい。百科事典の言葉の意味について考えるのにクワインにまでたどりつくのも、すごい大変だったわけ(笑)。百科事典、知識、ベーコン、暗黙知、ハイエク、ナレッジマネジメント、エーコ、認知言語学、認識論、プラトン、ゲティア問題、タルスキ、科学社会論、ポパー…。もともと中二病が持病みたいなところもあるから楽しいんですが、いちいち難しいし、本高いし、公共図書館はあんまり所蔵してないものも多い。ルーマンは読もうと思いつつ、まだ読めてない。そういうことで、ここ数年は時間が経ってます。
だから、そういう手間をかけずに、自分が欲している情報や知識にたどり着くために、百科事典の充実が(笑)。

浅野
なるほど(笑)。では、いつかまた、この続きをぜひお聞きしたいです。
本日は大変刺激的なお話をさせていただきまして、ありがとうございました。


日下九八氏プロフィール
Twitterアカウント: @ksaka98
ウィキペディア利用者ページ: http://ja.wikipedia.org/wiki/User:Ks_aka_98

Round 1
わかるようでわからない、ウィキペディアという存在
情報を理解するための「コンテクスト」って、どういう意味?
ウィキペディアの「情報アーキテクチャ」を考える

Round 2
ウィキペディアの「ユーザー」は誰なのか
コンテンツの価値は、どのようにして決まる?

Round 3
実は存続の危機とは無縁なはずの、堅牢なシステム
ウィキペディアの「書きにくさ」の理由
ウィキペディアはどんな「コンテクスト」で利用されるのか?

Round 4
名無しの「コンテクスト」は共有できない
ウィキペディアは「集合知」ではない?
公共的/利他的な見かけの裏にある「個人の自由」への意志
ウィキペディアで語られるべき「言語」とは

この記事について

  • architexture.jp にて浅野紀予が執筆した2014年1月28日付のオリジナル記事を転載しています。
  • 当記事の著作権は執筆者に帰属します。
  • 掲載している情報は、オリジナル記事執筆時点のものです。